「よく帰ってきてくれたよ、ア・イ・先・生!」
「心配したぜ、アイちゃん」
「勘弁先生、『カンベンしてよー』って泣いてたよ。マジ、ウケたけどー」
 キャハハ、キャハハー、キャハハハー。
 勘弁先生が研修ギャルズと呼ぶ同期三人組の波留、奈津、亜希に、スーツケースを転がして帰って来たばかりのあたしは、大学病院内のコーヒーショップへ半ば強引に連れて来られた。
 土曜日のお昼時で、空いている店内。「食べな、食べな」と、カフェモカとフルーツサンドをおごってくれるギャルズ。教育センターの勘弁先生こと神部先生、ヨシヨシこと吉田良子係長の物まねをする彼女たちを見て久しぶりに大笑いした。
キャハハ、キャハハー、キャハハハー。
 やっぱり、ここは楽しい。横浜に帰った理由を根掘り葉掘り聞かれるのかと思ったが、そんな話は全く出てこない。気を使っているというより、そういう話にあまり興味がないのかもしれない。

 話題はコロコロ変わり、いつの間にか猫の話になっていた。
「やっぱ、犬より猫だよねー」
「だよねー。イケメン男子よりブサイク猫」
「男は裏切るけど、実家の猫はいつもそばにいて傾聴してくれる」
「傾聴? 猫に向かって独り言いってんの、あんた?」
「うん、毎週末」
「キモイ〜」
 キャハハ、キャハハー、キャハハハー。
 
 坂の街のひとびとは、みんな優しかった。
 研修医室に戻り、久しぶりに白衣に袖をとおして、外科の医局を訪ねた。
春川秋桜先生は当直明けで、私服に着替えてちょうど帰るところだった。長袖のTシャツにパンツルックの先生の表情は、仕事の時と違って柔らかい。肩から下げた黒地のトートバッグの両端には猫の三角の耳がついていて、白い目がぎょろりとこちらを見ている。後ろは、曲がった尻尾のデザイン。
「尻尾の曲がった猫は縁起が良いのよ」
「そうなんですか…」
 そんなことより、休んだことをお詫びしなければ。
「先生、あたし、この度は大変ご迷惑おかけして…」
「いいよ、いいよ」。小柄な春川先生は華奢な手を左右に振って遮った。
「Welcome to come back!って、感じ?」と、先生は少し照れて医局のドアを開けた。
「彼が待ってるから、帰るわ」
 廊下に出た先生に、あたしは深々とお辞儀をした。
「私の彼」
「えっ?」
 くるりと振り返った先生の背中には、猫のイラストがプリントされていた。尻尾が長くくるりと曲がっている。
「イケメンでしょ? フフフ」
 先生は振り返らず手を振り、ローファーをコツコツ鳴らして歩いて行った。
「猫を飼い始めたら、女は結婚しない」という、どこかで聞いた言葉を思い出しながら、あたしは背中の猫(彼?)に手を振った。

 研修医室へ戻って机を整理し、教育センターの事務室に立ち寄ると、ヨシヨシがひとり休日出勤していた。お土産のクッキーを渡そうとすると、いきなり抱きつかれ、頭をヨシヨシとなでられた。
「よく帰ってきたね。大丈夫?」
「はい、ご心配おかけして…」
「いいのよ。それより、無理しないでね」
「はい」
 ヨシヨシのパソコンの壁紙が目に入った。また、猫だ。
「この子? 吉山ヨシオ君」
 家で飼っている猫らしい。
「かわいいでしょ?」
「ですねー」
 尻尾が短く、くるりと曲がっている。
「唯一のあたしの味方よ。飲んだくれのダンナと言うこと聞かない子どもたちにうんざりしたあたしを癒してくれるの。ねー、ヨシオ君」
 今度はスマホの写真をめくって見せてくれる。丸々と太ったお腹と細い眼。正直、どこが可愛いのか分からない…。
「ヨシオが春になると他のメスを狙ってときどきいなくなるんだけど、あたし心配で眠れなくなるのよー。ダンナなんかは、いつ帰って来たかも分からないんだけどね」
 どんだけ、猫好きが集まっているんだろう、この病院。
「ところで、アイちゃん。在宅研修、またやりなよ。勘弁先生、『俺の指導が悪かったんじゃないか…』って悩んでいたからさー。あの人、ああ見えて繊細だからねー」
「ええ、分かりました」

 翌週、あたしは、久しぶりに若葉クリニックの黄色い軽自動車に乗った。
「お久しぶりです! その節は…」
「よかですよ、よかですよ、無事に帰って来るだけで。ねっ、先生」
「そうそう、さあ、仕事、仕事」
 運転手の三津田さんも勘弁先生も、あたしがなぜ帰郷したかは聞かず、今日の患者さんのことについて、話し出した。
「この人、その筋じゃ、結構有名らしいですよ」と、三津田さん。
 後部座席の横に座る勘弁先生は、iPadの画面をあたしに見せてくれた。
「おおまがりネコさん?」

大曲音子 78歳 女性。
#1 大腿骨頸部骨折術後 #2 骨粗鬆症 #3 肺炎加療後
 今日がはじめての在宅(訪問診療)。ある病院で#1にて手術後退院したが、再び肺炎を起こし入院。すぐに軽快して退院するも、通院が困難で、在宅を希望。病院の地域連携室を通して若葉クリニックへ紹介された。

「どうして、有名なんですか?」
「行けば、わかりますよ」
 運転する三津田さんは不気味な笑みを浮かべていた。