親とか兄弟姉妹とか、身近な人の面倒を見ない人がいい医者になれる?

 患者さんから言われたことを、港を眺めながら思い出していた(シーズン1 第4話)。
 あの時、あたしは坂の街の港が見える洋館に立っていた。今、横浜の港が見える介護施設に立っている。母の手を握り、港をふたりで見下ろしていた。幼い頃、母に手を引かれて幾度となく眺めた光景だ。
「あの船はどこから来たんだろうね?」
 幼い頃に尋ねた問いを再び投げかけてみたが、母は何の反応も示さない。代わりに、若い女性の声が部屋に響いた。
「ここは小規模多機能型居宅介護施設といって、通いを中心に訪問、泊まりの3つのサービス形態が一体となって、24時間切れ目なくサービスを提供します。まあ、主な在宅サービスを1カ所で提供できるステーションのようなものですね」
 振り返ると、オレンジ色の半袖のポロシャツを着た若い女性が優しく微笑み、その視線はユウを見つめている。この人が、兄のユウの彼女か。
「はじめまして」
 自己紹介に対して、「兄がお世話になっています」と妹らしく自信なさげに答えると、彼女は元気あふれる声で返してきた。
「お母さんは、ここで安心して暮らせると思います。あたしもついてますし」
「手続きが済んだら、今の施設からここに移そうと思う。いいだろう?」
 ユウに反論できる資格なんて、あたしにはない。
 彼女が、母のことを営業的な「お母様」ではなく「お母さん」と呼んでいることをやっかむ資格もない。むしろ、感謝すべきだろう。故郷の兄嫁が社会福祉学部を出た立派な介護関係者ならば、医者失格のあたしの出る幕などない。
「本当に、よろしくお願いします」
 精いっぱいの作り笑いで頭を下げて、その施設を後にした。

 坂を歩いて下りていると、自然と涙が出てきた。
 母から忘れられ、ずっとずっと一緒だった双子のユウを奪われた。故郷にはあたしの居場所はないようだ。
 しょうがないよなー。
 自分が勝手にこの街を出たんだからさ。石畳の石ころを蹴る。ころころと音をたてて、側溝に落ちた。
「そっか、父さん…」
 父があたし達の元を去って10年。齢は70になったはずだ。
 母とユウとは絶縁していたが、あたしは年に数回は会っていた。学費と生活費の無心のためだ。国家試験に合格した後も会って、長年のサポートの礼も言った。
「やっと、終わったな」
 その時のつぶやきは、父の偽りない思いだったのだろう。
 すべてを終えて、今のパートナーと心穏やかに余生を送りたいのであろう。今あたしが会いに行って、悲しみを自分勝手にぶちまけてかき乱してはいけない。もう、あたしも大人なのだ。
 どこへも行く当てがなかった。
「とりあえず、先生のところへ帰るか」
 バスと電車を乗り継ぎ、荷物を置いたままにしている小西平医院へ戻った。

 平日だが、外来患者はひとりもいないようだ。
 摺りガラスがはめ込まれた診察室のドアをノックすると先生の声がした。入っていくと、紺の作務衣姿で椅子に胡坐をかき、机に向かって書類をつくっていた。窓以外の三方の棚には、ぎっしりと紙のカルテが並んでいる。
 先生は椅子をくるりと回転させ、あたしは患者さん用の丸椅子に座る。
「おう、アイちゃんか。どうだった、母さんの施設は?」
「それが、聞いてくださいよ。兄貴の彼女が…」
長々と愚痴ってしまったが、先生は時にペンを進め、時に髭をなでながら優しく相槌を打ってくれた。
「アイちゃんはまだまだお子ちゃまだな、アハハー」
「そんなー」
 坂の街の洋館の患者さんのあの言葉をぶつけてみた。
「やっぱり、身内をちゃんと見ない人はいい医者になれないんですかねー?」
「それは、ないわなー」
 速攻で返ってきた。先生はペンを止めてあたしを見ると、あたしを説得するかのようにたくさんの例を挙げてくれた。
 名医と呼ばれていた先輩は奥さんの癌に気づかなかった。赤ひげ先生と慕われていた評判の医者は、親の死に目に会えなかった。某大学教授は、自分の専門領域の病気で息子を亡くした……。
「こんな話はいくらでもあるってもんよー。医者だって人間だから」
「まあ、確かにそうですね」
 そして、先生は究極の事例も話してくれた。

「半年前のある晩、俺が在宅を終えて家に帰ると、女が台所で倒れていた」
「えっ?」
「嫁」
「先生の? 看護師さんだった奥さん?」
「ああ」
 そういえば、今回は一度もお目にかかっていない。この医院は看護師のさばけた奥様の切り盛りで何とか成り立っていると、ユウが言っていた。
「嫁は、常々ぽっくり行きたいと言ってたんだがねー。ラッキーというか、アンラッキーというか、俺が中途半端に発見したもんだからさー。今は寝たきりよ」
 先生は自嘲気味に笑い、また背を向けてカルテに向かった。
「ひとり娘から『他人ばかり一生懸命診て、なんでお母さんを診なかったのか!』と、攻められてねー。孫からは『おじいちゃん、おばあちゃんを早く治して』ってせがまれてさあ、まいったよ」
 奥様はその後、3次医療機関から2次医療機関の一般病床へ転院。さらに転院して今は慢性期病棟にいるが、退院を迫られているそうだ。
 先生は胡坐をかいたまま、くるりと椅子を回し、またこっちを向いた。
「若造の医者が言うのよ。『いい在宅医、紹介しますよ』って」
「それは…」
「俺、在宅、30年やってるんだぜー」
「ですよねー」
「その若造が、ハナタレだった頃からな」
 苦笑いする先生の頬の皺は深く、目尻は悲しく垂れていた。