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連載小説「坂の途中」

シーズン2 第2話
もう、いんじゃね?

2018/11/13
崎長ライト

 前回も話したように、抗菌薬や点滴をして、いつものように効果がない場合はまた入院要請をする。入院したら、いつものように不穏がひどくなり、短期間で帰されるだろう。その間にも、全身状態は徐々に悪くなる。何度か話したように、タナカさんはアルツハイマー型認知症の自然経過をたどっており、末期状態とも言える。抗菌薬を投与する意味がなくなってきている。
 小西平先生の説明に、娘さんが答える。
「前回の入院の前も先生から同じようなお話をされたので…、分かってます。兄ともそういう話を何度もしておりますし、父も……」

(イラスト:タテノカズヒロ)

「もう、いんじゃね?」
 母親の声を遮るように、少女が会話に入ってきた。
「何が?」
 あたしは、思わず聞いた。
「もう、入院させなくてさあ、ここでこのまま」
「ここで?」
「だって、ジージーは、ここが好きだもん。このアパートのこの部屋が。ねっ、ジージー」
 タナカさんの目はすでに閉じられていたが、ジージーと呼ばれて頬が少し緩んだように見えた。先生が力強くも優しい口調で、慎重に言葉を重ねる。
「それでは、今回は抗菌薬の投与は見送りましょうかね」
 娘は少女と視線を合わせ、何度がうなずいた後に少し上ずって答える。
「そうですね、そうしてください。兄も同意すると思います」
「必要に応じて輸液とか痛み止めとかを出します。状況によっては、方針を変えてもらって構いませんので」
 親子は小さな声で、「ありがとうございます」と頭を下げた。

「成人肺炎診療ガイドライン2017」フローチャート(日本呼吸器学会)より一部を引用(スライド提供:長崎大学病院呼吸器内科感染症内科の池田喬哉氏)

 帰りのタクシーの中、小西平先生はガラケーをパタパタ開け閉めして、何本か電話をかけた。
「今日から4日間…、特別指示書出すよ…、リプラスとビタミン…、いや、抗菌薬はなし……」
 訪問看護ステーションへの指示だろう。
「内服はもう無理だな。………。そうだなー、それでいくかー。手持ちの屯用を」
 薬局への指示だろう。
「あとは、誰にかけるか」
「ケアマネジャーですか?」
「だー。アイ先生はよく気が回るぜ」
「はあ。一応、在宅医療の研修もやってたんで」
「そうか、最近はそんなのあるのかー。じゃあ、即戦力じゃねーか」
「いやいや」
 ひと呼吸おいて、半音低くなった声が耳元に届いた。
「おまえ、俺の診療所で働かねーか?」
 右目の下の大きなホクロにも、じっと見られているようだった。
 新車のタイヤが心地よく回転している。ふたりの間にあるトートバックの中の紫陽花の手帖が揺れていた。
「冗談」
 先生は、照れたように繰り返す。
「冗談よ、冗談。ジョーク、ジョーク」
 あたしは曖昧に微笑んだ。
「おまえに、俺と同じ轍は踏ませられんからな。新車には新車の走る道ってもんがある。その轍(わだち)はかっこよく、意気じゃなきゃいけねー」
 何を言いたいのか? あたしは、きょとんとしていた。でも、先生はこのたとえに至極満足したようで、運転手に呼び掛けた。
「この車はかっこいいじゃねーか」
 運転手はバックミラーをちらりと見た。口元がほころんでいる。
「これですか。タクシー専用のジャパンタクシーです」
「ほー」
 運転手は自慢げに話しだした。トヨタのジャパンタクシーはユニバーサルデザインで室内はゆったり。安全性と燃費も優れているらしい。「次の日本にいらっしゃいませ」がキャッチコピーだそうだ。
「オリンピックが来ますしね」
「オリンピックねー。まあ、俺は1回見たし、もう十分だな」
 先生はあたしの方を見た。
「次の日本は、あんたたちのもんさ」

 タクシーは診療所の前に着いた。
 オレンジ色の淡い光の中に建つモルタル造り2階建て。白壁に消えかけた「小西平医院」の文字。タクシーの運転手が「潰れた」と言っていたのは正しかったのかもしれない。正面の玄関らしきドアには、板が×印のように打ち付けられていた。運転手がスーツケースを下ろしてくれた後、耳元で「気を付けてくださいね、女先生」と心配そうに囁いたので、あたしも幽霊屋敷に入る前のような心持ちになっていった。
 作務衣姿の猫背の先生は、裏手に回り『急患専用』の紙が貼られたドアのノブを引いて手招きする。本当に、ここに兄がいるのだろうか。
「失礼します」
 あたしは恐る恐る、ゆっくりと足を踏み入れた。


【参考文献】
1. 成人肺炎診療ガイドライン2017

2. 繰り返す誤嚥性肺炎・終末期肺炎に「治療しない」選択肢(2017/4/27 日経メディカル)

3. 外来必携2 p49 肺音.長崎大学病院呼吸器内科感染症内科 池田喬哉

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著者プロフィール

崎長ライト(ペンネーム)=濱田久之(長崎大学病院医療教育開発センター長)。長崎県の離島生まれ。予備校講師などを経て医師に。長崎県に医師をリクルートする新鳴滝塾事務局長としても県内外を奔走している。

連載の紹介

連載小説「坂の途中」
初期研修医・鈴木アイが、在宅医療を通して、様々な患者さんと出会い成長していく物語。指導医の僕はアイの奔放さに戸惑いながらも、診察Tipsを伝授していく。ゆったりとした時間が流れる坂の街で、心温まる物語が紡がれていく。

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