タクシーが停まると、小西平先生は座ったまま、「ここだ」と顎で指した。
「運転手さん、ここでしばらく待機してくれ」
 今にも崩れ落ちそうな鉄筋のアパート。側面と正面に耐震補強の梁が申し訳程度に付けられている。あたし達は外に出て、入り口の方へ向かう。
「4階の402。アイ先生は先に上って診察を始めてくれ」
「えっ?」
「エレベーターがない。俺は膝を痛めているから、ゆっくり上るさ」
 作務衣姿の先生は、使い込んだ黒の聴診器を自分の首から外してあたしの首にかけた。黒い箱型の往診カバンも渡された。あたしが立ちすくむと「さあ、仕事、仕事」と、追い払うように背中をパンとたたく。
「行け!」
「はい」
 あたしは階段をひとつ飛ばしで駆け上がった。
「スニーカーでよかったよ」
 地元に帰ってきてまで患者さんを診るなんて予想外。あたしは、何しに帰って来たのだろう。でも、先生から「おまえは医者だ」って言われて正直うれしかった。
「これは、けっこうな階段。坂の街を思い出すね」
 肩で息をしながら独りごちる。
 ハッ、ハッ、ハー。3階、あともうちょっと。
 そういえば、初めて紙カルテを見た。先生が持っていた紙の束はカルテだった。英語だかドイツ語だか分からない、象形文字のようなミミズのような字が並んでいた。先生の字はさっぱり分からなかったが、訪問看護師の報告書と病院からの連絡状があったので、患者さんの情報は大まかに把握できた。

 タナカカツヤさん、80代、男性。
 8年前にアルツハイマー型認知症と診断、徐々に進行して2年前から歩行障害が出現し、ほぼベッド上の生活に。妻は数年前に死去。長距離トラック運転手の50代の長男(独身)、40代で離婚後に戻った飲食業の長女とその娘(中学生)の4人暮らし。家族間の関係は良好で、介護に協力的。ホームヘルパーも入れているようだ。
医学的には嚥下機能の低下があり、食事中によくむせて、ここ1年で3回ほど誤嚥性肺炎の診断にて入院。
「入院すると不穏が増強してね、すぐに退院させられるんだよ。家がいいようで、『帰せ、帰せ』って、叫ぶらしい」
 苦笑いしながら、先生は付け加えていた。
「タナカさんはこのアパートが建てられた時からの住人だから、いろいろ思い出があるんだろう」
 つい最近も1カ月前に退院したばかりだが、4〜5日前くらいから息がゴロゴロ鳴り出し、今朝から容体が悪くなったらしい。

「こんにちは、コニシダイラ診療所の者です」
 玄関のドアは開き、ニューバランスのスニーカーとサンダルが並べられていた。
「いつもすいませんねー」
 長女だろうか。茶髪の長い髪を後ろで巻き上げた女性がすだれの向こうからやってくる。「どうぞ、どうぞ」と、あたしを中へ引き入れ、奥の薄暗い部屋のベッドの前に座らせる。彼女は慣れた様子で、タナカさんの今朝からの経過を手短に淡々と話した。
「でも、いつもの悪い時となんか違うような気がしてるんです」
 確かに、在宅酸素のチューブが鼻にかかってはいるが、肩で呼吸をしている。あたしは首にかけた聴診器を下ろし、タナカさんに呼び掛ける。
「それでは、少し診察させてくださいね」
 頬がこけた細い首は前にこくりと倒れ、優しい感じの目じりの皺が動いて瞼が上がり、大きな瞳にあたしが映った。声を発する力はもうないようだ。
 血圧は正常、脈がやや速い。酸素1リットルでSpO2が93か。バイタルは何とか保たれているようだ。
「目から見させてもらいますね」
 眼瞼結膜に貧血あり。
「次にお口を開けてもらえますか」
 舌苔あり、黒色。かなり乾燥している。
「首を見ますね」
 ペンライトを接線方向から当てて、正面から見る。頸静脈の怒張…、これは「あり」と判断していいだろう。胸鎖乳突筋も肥厚。
「胸の音を聞かせてくださいね」
 ベッドとタナカさんの背中の隙間に聴診器を押し込む。
「深呼吸できますか?」
 ブツブツと、水泡音が聞こえる。
 後ろから誰かの話し声が聞こえてきた。聴診器を外して振り向くと、ジャージ姿の大柄なショートカットの少女が、小西平先生を負ぶって入ってきた。
 彼女は先生を下ろしながら、子どもを諭すように言う。
「ヒゲ先生、また体重減った?」
「お前の力が強くなっただけさ」
「ちゃんと食べてるの?」
「ぼちぼちな」
 少女は先生をベッドサイドに下ろし、自分も傍らに正座した。先生は胡坐を組み、顎でタナカさんを指す。
「どうだね?」
 あたしは、意識の状態、バイタル、身体所見を述べて、診断を付け加えた。
「誤嚥性の肺炎と脱水があると思います。心機能も落ちていると思います」
「アイ先生は、医者になって何年目だったっけ?」
「まだ、半年です」
「やるなー。新米にしちゃ、上等じゃねーか」
「ありがとうございます」
「じゃあ、治療は?」
「そうですね。抗菌薬を投与して、心不全に気を付けながら補液でしょうか」
「まー、教科書的には、そうだわなー」
 先生は胡坐を組んだまま、髭を何度か撫で、さらに禿げた頭を撫でる。何かに迷っているような様子だ。国道を走るトラックの音が沈黙を埋める。壁には、若き日のタナカさん家族の写真、柔道着でメダルを下げた小さかった頃の少女とタナカさんが並んだ写真が飾ってある。
「どうするかね?」
 先生はおもむろに娘さんの方を見ながら話しだした。