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連載小説「坂の途中」

シーズン2 第1話
研修中断願

2018/11/06
崎長ライト

 新横浜駅から、タクシーを拾った。黄色の最新型ワゴンタイプの新車のようで、スーツケースを奥の座席に楽々と乗せることができた。行先を告げると運転手は左に首を倒し、聞いてきた。
「コニシダイラ診療所?」
 あたしは、小西平という漢字を空に書くと。
「ああ、ショウ、ニシヒラね」と言ってアクセルを踏みながら、「あそこは潰れたんじゃないの」と、今度は右に首を倒した。
「ホントですか?」
 そんなはずはない。小西平先生とは3日前に電話で話した。
「らしいよ。詳しくは知らないけど」
「なぜですか?」
「金払えねえ患者ばかりだからだろ?」
「はあ」
 それは、確かに言えている。
 最初に父が母を小西平先生のところに連れて行ったのも、診療費が安いという噂を聞いたからだった。

 ゆっくりと走るタクシーから景色を眺めていると、ビルの高さが徐々に低くなり、街の色がカラーから白黒にくすんでゆく。平成から取り残され、年号が替わった後も確実に見捨てられそうな背の低い雑居ビルが立ち並ぶ一角に入った。雰囲気ががらりと変わり、昼間から酔って歩いている男たちを避け、車はゆっくりと停まった。
 15~16歳の頃、よくここに通った。あたしにとっては懐かしい風景だ。
「気を付けなよ。こんな所は、若い女の子が来る所じゃないからな」
 運転手はお釣りと一緒に個人タクシーの名刺を差し出し、父親のような口調で諭す。
「何かあれば、ここに連絡しなさい。すぐ迎えに来るから」
「ありがとうございます」
 苦笑いしながら受け取って財布に入れた。
 ドアが開いて、スーツケースとバッグを持って降りようとした時だった。
「痛った!!!」
 左肩に何かが、ド~ンとぶつかった。
「え~~、何、何!」
 無理やり誰かがタクシーに乗り込んできたのだ。
 赤のスーツケース、デニムのあたし、白のトートバッグの順に、奥にぎゅっと詰め込まれた。甲高いひょうきんな声が耳元で鳴った。
「おっ、アイちゃんじゃねーか!」
 その声を確かめるように、あたしは左肩越しに相手を見る。下駄に素足。膝までの紺の綿パンと浴衣のような上着。
 これが作務衣というやつかと思いながら顔をのぞくと、坊主頭にこけた頬と口を覆う長い白髭。仙人のような顔貌だが、右目の上の大きなホクロが愛嬌を醸し出す。
「コニシダイラ先生!」

 先生はご無沙汰の挨拶を交わすこともなく、指示を出す。
「運転手さん、ごめんよ、急いでくれ。第2市営住宅のB棟。市場の先から右に行って、坂を上ったらまた右」
 タイヤがこすれる音が街に響き、ワゴン型の真新しいタクシーは軽快に走り出した。
「助かったよー、運転手さん。うちの診療所の車が動かなくなってねー。困っちまって。バッテリー、こないだ充電したんだけどねー」
 運転手は、ぺこりと頭を下げた。先生は忙しそうに膝の上の紙をめくっている。
「あの~」
 声をかけると、ちらりとあたしを見た。
「ユウ兄ちゃんのことかい?」 
「ええ、まあ」
「大丈夫だよ。もう、すっかり良くなっちまった。新しい仕事とお母さんの介護でちょっと頑張りすぎたんだろうよ。ここ1年、ほとんど休んでないってさ。可哀想になー。夏の終わりにかぜをこじらせちまって、長引いてさー、軽い肺炎になっちまったみたい。入院させるほどでもなかったけど、あいつは休まねーから、休ませた方がいいと思ってさー」
「ありがとうございました」
「いいってもんよ。入院時は、俺のボロ診療所でも、一応保証人が要るからさ。ユウちゃんが『父さんに連絡しないで』」って言うからさ、アイちゃんに連絡したのよ」
 先生は前より少し痩せたようだが、早口でせっかちな話しぶりは変わらなかった。なんだか落語を聞いているようだ。
「そうでしたか、本当に兄がお世話になり、ありがとうございました」

 小西平先生は、いつものごとくあたしの話なんか聞かない。ひたすら、紙の束をめくっている。あたしが所在なくスマホをいじっていると、話しかけてきた。
「ところで、アイちゃんは、医者になったんだっけ?」
「あたしですか?」
 医者って言えるのか? 研修で逃げ帰って来たあたしが?
「国家試験、通ったんだろう?」
「まあ、一応」
「そりゃあ、まちがいなく医者だな。ちょうどよかった、渡りにアイちゃんってか、ハハハハ―」
 先生は髭をなでながら、笑った。
「ちょっと、手伝ってくれねーかな?」
 えっ、えっ、何を? 
「先生、あたし…」
 医者を辞めて帰ってきたんですけど…と、言おうとしたが先生は聞かない。
 紙の束をあたしに差し出した時に、先生のガラケーが鳴った。
「もしもし、ああ、またおまえか。……。だから、今までも、それをやってきたのよ。……。無料または低額診療事業所の要件……。バカヤロー、おまえなー! 俺の診療所を潰せってか!」
 先生の怒鳴り声に合わせて、タクシーは古い市場の角の黄色信号に突っ込み、音を立てて左カーブを思いっきり攻めた。
 タイヤのきしむ音が鳴り、景色が飛ぶ。あたしが、右に大きく揺れてスーツケースにぶつかるように寄り掛かった時、トートバックの中身がひっくりかえった。足元に何かが落ちた。
 ころころころ。ゆっくりと転がったのは長方形のもの。
 手帖。
 亡くなったキヨさんが編んでくれた紫陽花の刺しゅうの手帖だ。勘弁先生や谷河先生や三津田さん、患者さんから教わったことが書いてある手帖。坂の街の思い出がいっぱい詰まった手帖。あたしの一番大切な手帖だ。
 あたしは、その手帖を拾い上げて両手でゆっくりと抱きしめた。
 タクシーはどこへ向かうのだろうか。見知らぬ街の景色は次々と変わってゆく。胸に抱く手帖の温かさが不思議と、さっきまで抱えていたもやもやを徐々に沈めてくれていた。キヨさんからもらった言葉をつぶやいてみる。
 よかよか。よかよか、なんとかなる。
 タクシーはスピードを上げて坂を下って行った。


※この物語はフィクションですが、物語中の臨床のポイントは各診療科の先生からのアドバイスに基づいています。

【参考】
厚生労働省 医師臨床研修制度のホームページ

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著者プロフィール

崎長ライト(ペンネーム)=濱田久之(長崎大学病院医療教育開発センター長)。長崎県の離島生まれ。予備校講師などを経て医師に。長崎県に医師をリクルートする新鳴滝塾事務局長としても県内外を奔走している。

連載の紹介

連載小説「坂の途中」
初期研修医・鈴木アイが、在宅医療を通して、様々な患者さんと出会い成長していく物語。指導医の僕はアイの奔放さに戸惑いながらも、診察Tipsを伝授していく。ゆったりとした時間が流れる坂の街で、心温まる物語が紡がれていく。

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