【これまでのあらすじ】
 関東の医科大学を卒業し、「坂の街」の大学病院で初期臨床研修に励む鈴木アイ。月2回の在宅医療研修で坂の街の人々の家を訪れ、教育センターの「勘弁」先生らの指導を受けながら、医師として成長を重ねてきた。しかし、初期研修1年目の秋、アイは突如、病院を去った。

※これまでの物語(シーズン1)はこちらからお読みください。


(イラスト:タテノカズヒロ)

 私、鈴木アイは、一身上の都合により、貴大学病院を止めることを決意し、

「うん? 何か変だ」
 あたしはペンを止めた。新幹線の平日の自由席はガラガラで、あたしの独り言に振り向く人は誰もいない。
「漢字が違う。『止める』じゃなくて『辞める』でしょ。いや、文脈からは『辞職』を決意し…? それとも『退職』?」
 昨日の夜、大学病院を出て最終の特急カモメに乗り、博多に泊まって今日朝イチの新幹線に乗った。車窓を眺めながらあれこれ考え、新大阪でようやく「研修中断願」を取り出し、名古屋あたりでシャープペンと消しゴムを取り出し、下書きとして1行を書いてみた。
 でも、何かしっくりこない。
 静岡を通り越し、短いトンネル、長いトンネルを何本か抜けると、鉄橋を渡る轟音と共に左手にあの人が見えて来た。ペンを握ったまま窓に頬を寄せた。
「きれい…」
 これを見たいがために、飛行機ではなくわざわざ博多から「のぞみ」に乗ったのだ。ゆっくりと近づいてくる彼女(あたしは女性と思っている)のたたずまいは、凛として美しい。新富士駅を過ぎたあたりの景色は最高だ。秋の草原の向こうに綺麗に裾野を広げた彼女は透き通るような青空に向かって大きく伸びをしているようだった。ひとりではしゃいでみる。
「すごいね、富士山! 最高だ―」
 でも、なんだか寒々しい。彼女に比べて自分は、なんとも情けない。
 あたしは今、逃げ帰っているのだ。坂の街の大学病院で2年働き学ぶ初期臨床研修。たった半年過ぎたところで、あたしは辞めようとしている。

 視線を富士山から、テーブルの上の『研修中断願』へ落とした。
 調べてみたら、初期研修医の場合、研修管理委員会に中断願を出した後に審査される。その時に厚生労働省の出先機関である厚生局にもお伺いを立てるのが一般的のようだ。

2017年度第3回医道審議会医師分科会医師臨床研修部会の資料1「臨床研修の中断・未修了について」より引用

 認められれば、次は大学に退職届を出す、ということらしい。国の管轄下にある研修医は、自分勝手に辞められないのだ。かなり、複雑〜。
 何もかもが嫌になり、書類ひとつさえ満足に書けない自分に腹が立つ。
「アー、メンドクサ!」
 握りしめたシャープペンの芯が折れ、車窓の富士山に当たって跳ね返され、あたしの頬をチクリと刺す。
「痛っ」
 涙がでそうだ。バカな奴。

 そもそも、あたしはなぜ病院を辞めようとしているわけ?
 兄貴が入院したから? 確かに、それがきっかけで実家に帰ろうと思った。さらに、母さんがアレだから? 父さんが……、いや、父のことは関係ない。でも、家族のせいで研修を辞めるの? それって、言い訳じゃん。
 本当は、研修がきついんでしょう? 耐えられないんでしょう?
 いやいや、小児外科の春川秋桜先生は優しかったし、研修時間にも配慮してくれていた。感謝している。(第10話
 教育センターの勘弁先生は、いつも熱心に在宅医療を教えてくれた。若干むさくるしかったけど、うれしかった。三津田さんや谷河先生も温かく迎えてくれた(第1話)。
 原因は仕事じゃない。
 じゃあ、何よ? キヨさんが、亡くなったから?(第9話
 佐藤先輩のこと?(第7話) でも、先輩とは何もない。悲しいけど何も起こってない。

 全部が超中途半端で、何の自信もない情けない自分。ため息をついたとき、スマホがテーブルの上で震えた。
 教育センターの事務のヨシヨシ(吉山良子係長)からのLINEだ。気さくに話せる研修医の寮母さん的な存在だ。あたしの突然の休暇の申し出にもすぐに対応してくれた。九州弁のとぼけたスタンプを添えている。

『アイちゃん。大丈夫?なんば、しよると?』
『大丈夫です。中断願を書いてます』
 真面目に返すと、しばらくして長い返事が来た。
『今回のアイちゃんのお休みは、リフレッシュ休暇+年休扱いにしています。全職員は、連続して5日間のリフレッシュ休暇を取る必要があります。勘弁先生とも話ましたが、1週間ほど休んだら如何でしょうか? 中断願を提出するのは、急ぐ必要はありません。まずは、ゆっくり休もう!』

 ヨシヨシのLINEから、教育センターのみんなが心配してくれていることが分かる。同期の波留、菜津、亜希からもLINEが入った。
 すまないと思う。あたしはバカだ。あたしはいったい何をしたいわけ?
富士山の姿はいつのまにか消えて、窓にもたれかかったまま意識は薄れたが、「新横浜」のアナウンスが遠くから聞こえ、慌ててスーツケースとバッグを引いてホームに降りた。
 ホームは、相変わらず混雑していた。久しぶりの故郷だが、誰も迎えに来てないし、誰にも会いたくない。深呼吸をしてつぶやいてみる。
「とりあえず、入院している兄貴に会いに行こう」