(イラスト:タテノカズヒロ)

「そのまま、動かすな!」
 キヨさんはトイレの床にうつ伏せに倒れていた。洋式の便器の右脇に、顔を右側に向けていたが、呼吸状態は確認できない。
「呼びかけて、ABCを!」
 アイは馬乗りになるように覆いかぶさり、左手で肩を軽く叩きながら、「キヨさん!」と何度か叫ぶ。反応がない。トイレの外に立つ僕からは、キヨさんの様子がすぐにはわからない。
「呼吸はどうだ?」
「はっきりしません!キヨさん、キヨさん!」
 僕は視線をキヨさんの背中に移した。
「呼吸は大丈夫のようだ!」
「え~、こっちでは確認できませんよ」
 僕はアイのスクラブを引っ張って後ろに下がらせ、キヨさんの腰を指さした。うつ伏せになっている場合は、腰で呼吸を確認できる。
「あっ、上下に動いている。キヨさん、起きて、起きて、起きてよ~」
 アイの泣き叫ぶような声が古く傾きかけた木造平屋から、斜面へ抜けてゆく。
 すると、うめき声と共に、キヨさんが目を開けた。今度は、僕が馬乗りになり、頭を便器脇に突っ込んで叫んだ。
「キヨさん、大丈夫か!」
「ああ~、ああ~」
 キヨさんは目を開けた。
「よし、ゆっくりと仰向けに」
 慎重に首を固定しながら、丸太を転がすようにキヨさんをひっくり返す。
 キヨさんは目を閉じて、再びうめき声をあげる。

スライド提供:長崎大学病院 外来・救急医療教育センター教授の長谷敦子氏

 アイがキヨさんの顎を上げて気道を確保。僕は往診バッグを取りに玄関に走る。
「救急車呼びます!」と、アイが声を上げた。
 僕は「やめろ!」と叫びそうになったが、様々なことが頭をよぎり、飲み込んだ。
 やっぱり送るしかないか……。
 廊下に戻り、往診バッグからサチュレーションモニターを取り出し、キヨさんの左の人差し指にはめる。その間、アイが救急隊にこの場所とキヨさんの氏名、自分が医者であることを伝えている。
「え~、状況は、トイレに倒れていて、意識は朦朧としていますが、呼吸はなんとかあります。はい、えっと~」
「E3 V3 M5、SpO2 90%」
 意識レベルの指標と血中酸素の状態をアイに告げる。アイがそのまま、救急隊に繰り返す。
「E3 V3 M5、SpO2 90%です。はい、よろしくお願いします」
 アイは頭を下げて電話を切った。僕はひざまずいて聴診器を耳にあて、キヨさんの右腕の血圧を測定しながら指示を出した。
「酸素を持ってきて」
「酸素?」
「HOT、在宅酸素。ベッドの脇にある」
「ああ、あれ」
「多分チューブが長いからここまで届くと思う。5リットルで」
「はい」
 アイがチューブを持ってきて、キヨさんの鼻につける。
 血圧は160の100、脈拍も88と安定している。
 アイは聴診器で心音を聞いている。僕は、指先のモニターの青い数値が90、91、92と上がってゆくのを見つめていた。96になったときに、キヨさんが再び目を開け、口元を緩めた。
「あら、アイちゃん先生……」


※この物語はフィクションですが、物語中の臨床のポイントは各診療科の先生からのアドバイスに基づいています。