「もしもし、三津田さん? 今日はお休み?」
「僕です」
「え~、勘弁先生?」
 僕の口癖の「カンベンしてよ~」から、患者さんも研修医もそう呼んでいるようだ。
「はい、勘弁です」
「先生、お盆休みでしょう?」
「いや、当番ですよ」
「あら、大変ね」
「どうかしましたか?」
「いえ、別にたいしたことじゃないので」
「どうしました?」
「いや、いいのよ。また、今度で」
 キヨさんは電話を切りそうになった。いつものような張りのある甲高い声ではなく、低くこもっているのが気になる。
「キヨさん、どがんかあると?」
 僕は土地の言葉で言ってみた。
「ちょっと、吐いてさ。むかむかして。ボ~となったけど、今はよか」
「お腹が痛いですか?」
「いや~。少し寝れば大丈夫よ。病院へは明日……」
 ここで、電話がぷつりと切れた。

 すぐにかけ直したが、出てくれない。3回目も4回目も応答なし。留守電にもならない。僕が首を横に振って電話を切ると、アイは糸を持った手を止めて眉間に皺を寄せている。
「ちょっと行ってくるよ」
「私も連れて行ってください」
 彼女は立ち上がり、机の横にあった往診バッグと在宅用の電子カルテが入ったiPadを手にしていた。予定の実習ではないが、外科研修も明日まで休みのようだから問題はなかろう。僕はテレビを消し、パソコンは作業中のままスリープして、事務室の鍵を閉めた。

「無理やね~」
 ロータリーで待機していたタクシーの運転手は、キヨさんの住所を伝えるなり、そう言った。空いてたら教会の下まで10分ちょっとで着く距離だ。
「先生、お盆の15日のこの時間にタクシーに乗っちゃダメですよ。精霊流しで、そっち方面は完全に交通規制」
 こう諭されたが、白衣姿の僕が事情を説明すると、
「ありゃ~、そりゃ、大変たい。そしたら大回り大五郎でも、よかですか? タクシー代もバカにならんですよ。シートベルトばしてください」
 帽子をかぶり直し、アクセル全開で急発進する。
 車窓からは反対車線の精霊船の列が見える。夜の帳が徐々に下がり、無数の提灯の明かりが赤に黄色に浮かび上がってくる。船を先導する鐘の音があちこちから鳴り響く。頭に豆絞り、家紋入りの白の法被の上下に白の足袋といういで立ちの男達が「ど~い、どい」と声を合わせながら船を押している。爆竹は途切れることなく機関銃のように鳴り続け、隣のアイは両耳を塞いでいる。無言の僕らを乗せて、タクシーは走った。

 どこをどう走ったかわからないが、教会の下の階段の登り口に着いた。
 料金を払っている間に、アイは駆け上がって行った。僕も遅れて上がる。水銀灯の明かりが薄暗く灯る中、下から聞こえる爆竹の音を背にして、なんとか頂上のキヨさんの家に着いた。玄関先に往診バックが置いてあり、アイはいない。
 どこに行った?
 呼び鈴を鳴らすが、応答はない。居間の電気はついているようだ。もう一度鳴らす。反応がない。テレビの音らしきものも聞こえてくる。スマホを懐中電灯代わりにしたアイが裏庭の方から出て来て、腕でバツ印を作った。
「どこも、空いてないです」
「えっ」と思ったが、声にならなかった。最悪の事態が頭によぎる。谷河先生から戸締りをした後の夜間に亡くなっていた独居の患者さんの話を聞いたことがある。どうすればいい?
 ケアマネジャーに連絡したら、鍵を持っているか? 民生委員か、教会の人か、それとも警察? iPadのページをめくりながら、考える。モニターの光でアイの顔が青白く映る。そもそも、こんなことしている時間はあるのか? すでに電話から半時間はたっている。電気もテレビもつけっぱなしだから、キヨさんは家の中にいるはずだ。
 アイは玄関の右手、軒先の下にある縁に上ると、ガラス越しに中をのぞき始めた。廊下の奥にトイレがあるはずだが、暗くて見えにくいようだ。再びスマホをかざしすと、不意に叫ぶ。
「倒れてます!」
 僕は往診バッグの中から診察用のハンマーを取り出し、玄関の引き戸の窓を叩いた。大きな音がしたが、先端にゴムのついたハンマーではガラスは割れなかった。アイも縁から飛び降りてこっちへ来た。
「下がって!」
 とっさに足元の植木鉢を持ち上げて、玄関に投げつけた。暗闇に雷鳴が轟く。僕は一瞬立ちすくんだが、アイのスマホの明かりの下、割れたガラスの中に手を入れて鍵を開け、靴のまま廊下に上がって電気をつけた。「キヨさん!」と叫びながら、アイが僕の横を走っていった。