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連載小説「坂の途中」

第5話 パワハラとアンガーマネジメント
指導医の怒り

2017/10/31
崎長ライト

「そういう時は、タクシー飛ばして来るのが当たり前だろう!」
「じゃあ、タクシー代は誰が払うんですか? そもそも不可抗力の遅刻はダメなんですか? 故意ではないんですよ。誰にだって、起こることでしょう」
 僕は段々と言いくるめられ、悪いのはこっちか?と変な気持ちになっていったが、最終的には「つべこべ言わずに謝れ!」と怒鳴った。玄関前を行き来する患者の視線が集まったのを覚えている。
 そこでその日の研修を中止すれば良かったのだろうが、「どんな研修医に対しても、平等に一生懸命教えなければいけない」と、変に教育者を自覚していた僕は、その研修医を連れて実習に向かった。

 散々な日だった。
 その研修医は聴診器を忘れていて、実習マニュアルも読んではいなかった。「家に入ったら立たないで、座って挨拶をする」「××などの診察は端的に行う」「最後は、患者さんと握手をして別れる」など、10分もあれば読めるマニュアルなのだが……。決して不真面目ではなかったし、一生懸命やろうとしているのはわかったが、学ぶ側の(僕が思う)最低限のルールをわきまえず、何度か叱ったと記憶している。
 もちろん、「よく知ってるな~」とか、「笑顔での対応はいいよ」とか、時々褒めることは忘れなかったが、その研修医には届いていなかったようだ。さらに実習の帰りには、雨が上がった平和公園の脇のアイスクリーム屋で、抹茶のソフトクリームをおごってやった。
「今日はよく頑張ったよ。この調子でやれば大丈夫。まあ、遅刻には気をつけて」
 フォローして、良い指導医を演じきったつもりだった。
 甘かった。多分、僕の未熟さ故の失敗なのだが、その研修医の立場から見ると、僕は最悪最低の人間だったのだろう。

 数日後、教育センター長から呼び出しがあった。
 センター長は外科系教授で、僕をこの街に導いた温厚な人物である。還暦を前にしていたがオペ室にいることが大好きな人で、センターの教育業務は副センター長や僕に任せている。センターでの仕事は年に数回の会議、入職式や修了式の挨拶くらいと思っていた彼から初めて呼び出しを食らった。
 港の見える角部屋のセンター長室で、好々爺の彼はソファーに座り、ガラスのテーブルの上、正確に言うと2つの茶碗の間にA4の紙を1枚ひらりと置いた。そして、「よくあることだから、あんまり気にしちゃいけないよ」と、昔話を始めた。
 自分が研修医の頃、手術中に怒鳴られて「お前、殺すぞ」と蹴りを入れられたとか、地方の研究会での発表中に自分の指導医から「その内容は間違っている。お前、全然勉強していない。最低だ。医者辞めろ」と、援護射撃どころか、後ろから撃たれた……。普段は能面の彼が、笑顔を交えて話してくれた。
 気遣いに感謝しつつも、僕はA4の紙を丹念に追っていた。
 一番上には僕の名前。その下に、箇条書きに10個の項目が書かれていた。

1. 人前で怒鳴られた
2. 怒った理由が、不可抗力による遅刻だった
3. 事前の実習の説明もしないのに、怒った
4. 「ダメだ」「辞めろ」「最低」等の言葉の暴力を浴びせた
5. 無理やりアイスクリーム屋に連れていかれた
……
 といった項目が10個並び、最後に<結論> と書き、赤文字の12フォントで、「地位を利用したパワーハラスメントである」。その研修医はそう結んでいた。僕の手は少し震えていたと思う。もう一度読もうと思ったが、焦点が合わなかった。僕は、小さな声で言った。
「私、辞めましょうか」
 センター長は顔の前で右手を大きく振り、大袈裟に笑った。
「ハハハ、こんなことで辞めていたら、大学病院の医者の半分はいなくなっているだろう」
「しかし、向こうはパワハラで訴えると言ってるんでしょ?」
「訴えるとまでは書いてないよ」
「じゃあ、どうすると?」
「それは、わからない。本人に今から聞いてみる。その前に事実の確認を君にしといた方がいいと思って。これは事実?」
「事実と言えば事実ですね。ただ、自分は……」

 その研修医に気づいて欲しい、成長して欲しいと「叱った」つもりだったが、結局は利己的な感情をぶちまけて「怒鳴られた」と捉えられた。でも、言い訳はしない。彼にとっては、自分の指導は最悪最低だったのだろう。その紙切れを見ながら、指導の場面を思い出そうともしたが、馬鹿らしくなったのでやめた。正直、どうでもよくなった。多分、自分はこの職務に向いていない。
「センター長、もういいですよ。俺、辞めますから。辞表書いて持ってきます」
 席を立とうとした。
「まあ待てよ、そう慌てるな!」
 好々爺は腕をつかみ、再度ソファーに僕を沈めた。確固たる信念を持った現役の外科医を感じさせるに十分な力強さだった。好々爺の目は大きくなり、凄みのある力強いものになって僕を見つめていた。
「まあ、茶でも飲みなさい」
 死んだ父親に諭されているようだった。僕は茶碗に口をつけた。ぬるくて、なんとも言えない味の渋茶だった。好々爺はわざとらしく「あれっ」と、口元を緩めた。
「先生、茶柱立ってるじゃないか~。これから、いいことあるさ」

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著者プロフィール

崎長ライト(ペンネーム)=濱田久之(長崎大学病院医療教育開発センター長)。長崎県の離島生まれ。予備校講師などを経て医師に。長崎県に医師をリクルートする新鳴滝塾事務局長としても県内外を奔走している。

連載の紹介

連載小説「坂の途中」
初期研修医・鈴木アイが、在宅医療を通して、様々な患者さんと出会い成長していく物語。指導医の僕はアイの奔放さに戸惑いながらも、診察Tipsを伝授していく。ゆったりとした時間が流れる坂の街で、心温まる物語が紡がれていく。

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