僕は資料を貼ってあるスケッチブック、ネタ帳を広げてアイに説明する。もっとも、僕も何年か前までは、患者さんの目が真っ赤になっていたら驚き、何をどうしたらいいかわからず、やみくもに眼科の先生に紹介して迷惑をかけていたのだが……。

電子書籍「外来必携2」各論「目」(著者:長崎大学眼科助教の木下博文氏と草野真央氏)より改変引用。*画像クリックで拡大します。

「念のため、後で眼科の先生にコンサルトしよう」
 僕はiPadで写真を撮って電子カルテに貼りつけ、キヨさんに話しかける。
「キヨさん、目が赤いけど、大丈夫と思うよ。1~2週間で良くなるよ」
「あたしは気にしとらんけどね。ただ、あたしの目の黒かうちはこの家から離れんと思ってたけどね~。目の赤うなったね……。そろそろ、潮時かね、先生?」
 僕は緑の藻の生えた熱帯魚の水槽を見ながら、笑みを作った。確かに、もう限界かもしれない。去年までは、水槽はいつもピカピカだった。几帳面なキヨさんは、いつも掃除をして僕らを迎えてくれていたのだ。

(イラスト:タテノカズヒロ)

 診察が終わり、薬の残りをチェックし、次のスケジュールを小さな白板に僕が書き込んでいる間、キヨさんはテーブルの脇の引き出しから何かを取り出し、アイに渡した。
「ありがとうね、よう来てくれました」
 紫陽花のフランス刺繍のカバーのかかった可愛らしい手帳だった。
「え~、いいんですか、ホントに。ありがとうございます。うわっ、ちょうど白衣のポケットに入る。キヨさん、これ、いい~。すごくかわいい~」
 キヨさんは正座しているアイの手を引いた。アイは、導かれるままに椅子に座っているキヨさんの膝にゆっくりと顔をうずめた。
「よか先生にならんばよ、アイちゃん」
「はい」
 逆光の中、抱き合うふたり。坂を登りきった人とこれから登る人。僕とマリア様が見つめていると、海から風に乗り、汽笛の音がまた響いてくる。

 僕らは数軒の家を回り、業務を終えた。
 帰路の渋滞の中でアイに感想を聞くと、感動した、緊張したと優等生的な回答の後、
「マジ、びっくりしましたよ。フツー、こんな坂の上に人間は住まないですよねー。あり得ない。ゴミはどうやって出すんですか?」
 斜面の家々を見つめながら、いかにも外から来た人という答えが返ってきた。
「それと、『急性期医療は2時間ドラマで、在宅医療は大河ドラマ』って。先生の例え、いいですね。でも、あたし、大河ドラマは1回も見たことないし~。つまんなくないですか? あっ、でも、国試が終わって、キムタクが医者をやった日曜のドラマまとめて観て、結構感動して~、外科もいいなあと思ったりして~。いや冗談、冗談。先生、内科医ですよね。内科もいいですよ~、ホント。特に在宅医療は~、ハハハー。それと~」
 延々と続くアイの屈託のない話を聞きながら、キヨさんのことを考えていた。
 大河ドラマにも最終回は訪れる。坂の上の大河の最終回をどうしたらいいのだろう……。車は電車通りに入った。石畳の軌道を横切りガタゴトと軽自動車が揺れる。夕日が電車の車体を照らし、家路に着く人々がホームに並んでいる。赤信号で車が停まり、運転手の三津田さんが後ろを振り向く。
「先生、今日も思案橋? どこらあたりで降ろしますか」
 アイがこちらを向く。
「えっ、先生、飲みに行くんですか。いいなあ~、いいなあ~」
「おっ、アイ先生も一緒にスナック行くか? まずイタ飯でも食べて」
 僕としては結構本気モードで、勇気を振り絞り聞いたのだが、
「結構です。勉強会ありますし」
 秒殺された。
 勘弁してよ~。断るにしても、もうすこし年長者に気をつかっていいだろう。
 心に軽い傷を負いながら、思案橋の入り口で降ろしてもらった。いい感じに、夕暮れの雑踏が目の前に広がっていた。さて、どの店でこの傷を癒そうか。
 今夜も、ハイボールファースト……。


※この物語はフィクションですが、物語中の臨床のポイントは各診療科の先生からのアドバイスに基づいています。

【参考文献】
1. 木下博文、草野真央.外来必携2 各論:目 眼科  
2. 丸尾 敏夫ほか 眼科当直医・救急ガイド 第1版 文光堂 ; 2004. 8.
3. 八木幸子 めざせ!眼科検査の達人 第1版 メディカ出版 ; 2003. 126.
4. Stan Solomon. Patients First: The Story of Family Medicine in Canada Hardcover. Nov 9 2004.