アイが血圧計を巻き、アネロイド式の小さなメーターをカフに挟む。
「もう少し、ゆるく巻いたがいいわよ」
 キヨさんは微笑みながら、標準語で指導してくれる。「一番の先生は患者さん」とは、よく言ったものだ。
「128の72です」と、アイが僕に伝える。
 僕は待ってましたとばかりに、彼女に注意する。
「ペーシェントファースト! 最初にフィードバックするのは患者さん」
 キヨ“先生”が僕を見てニヤけている。これは毎回のお約束なのだ。まあ、一応は僕も「先生」だから、もっともらしく格言を与える。
「目の前に患者さんがいたら、まずは患者さんと話す。これからの2年間の研修で心に留めておくべきことは、患者第一主義。ペーシェントファーストだ。まず、患者さんのことを考えて行動する。それを守れば、いい研修になる……と、僕はカナダの家庭医から教えてもらった」
 「何とかファースト」が流行っている今より10年以上も前の2004年、「Patients First」というカナダの家庭医の歴史を記した本が発刊された。僕はそのころ外科医を辞めて、プライマリケアというものを勉強しようとしていた。訳の分からない漠然とした学問であった。プライマリケアとか、family medicineといった分野は奥深い森を形作り、そこに迷い込んだ僕は半分ノイローゼになっていたと思う。そんな時にこの本を読んで、うっそうとした森の中に一筋の光が射したような嬉しさがあったのを今でも覚えている。そして、僕の医療に対する考え方は、急性期一辺倒であったことに気づいた。急性期病院を退院した患者さんのその後のことなど、まったく考えていなかった。
「急性期医療が2時間ドラマなら、在宅医療は大河ドラマ」。様々な経験を経て、今はこう思っている。

 アイは僕の格言を聞いた後、「ペーシェントファースト」と声に出した。しっかりとうなずいた後、「血圧は、上が128で下が72です」と、キヨさんの目を見て言い直す。アイには悪いと思ったが、さらに僕は突っ込む。
「その数値はどうなの? いいの、悪いの?」
「正常です」
「じゃあ、患者さんにフィードバックしないと」
 アイは、再度キヨさんと向き合う。
「血圧は正常範囲です」
 僕はまた突っ込む。
「ちょっと固いなあ~。もう少し元気に。はい、もう1回」
「血圧は、上が128で下が72です。バッチリです」
 居酒屋のバイト時代を思い出したのか、破れかぶれになったのか、覚えたての土地の言葉で、さらに大声で言う。
「キヨさん、血圧はよかです! バッチリです、よかよか!」
 キヨさんが、破顔してお祈りをするように皺くちゃの手を眼鏡の前で合わせた。
「嬉しか~、バッチリって。よかった~、ハハハ~」
 アイの手を握った。
 単純なやりとりだが、キヨさんは、毎週これを楽しみに生きているのではないかと思う。この5年間、毎週毎週、時にはエコバックやティシュペーパー入れを手作りし、庭の夏ミカンやビワを収穫して、彼女は若者たちが来るのを心待ちにしていた。学生や研修医が夏休みで来ない時は、「なんだ、今日は先生だけか」とあからさまにがっかりされた。「キヨさん、勘弁してよ~」と苦笑するのだが、若い学生や研修医の言葉や笑顔には、僕が処方する薬以上の力があることを実感している。

「アイ先生、オッケー、最高! 次は診察。キヨさんの眼鏡を外して」
 問診するアイが打ち解けていく様子を見守っていた僕は、映画監督のようにパチンと指を鳴らした。老女と若い女を下から見上げるアングルは小津安二郎の映画のようだと、ひとり悦に入る。『東京物語』ならぬ『在宅物語』。東京から来た医学生が、坂の街で在宅医療をしながら一人前の医者になる青春物語……。いいシナリオが書ける。そんな思いにふけっていると、アイが慌てた様子で僕に話しかけてきた。
「先生、目が……」
「だからさ~、ペーシェントファーストって……」
「でも、先生、キヨさんの目が真っ赤。見てください」
 そんなに、患者さんの前で慌てるなよ、無駄に不安がらせてどうするんだ。
ヨイショッと、キヨさんの前に立つ。確かに。色付き老眼鏡で気付かなかった。
「レッドアイだなあ~」
 右目が全体的に赤い。
「結膜か。キヨさん、目の痛みは?」
 キヨさんは首を横にふる。
「眼科にすぐ診せた方がいいですよね。電話しましょうか」
 アイが慌ててスマホを取り出そうとする。
「うん、まあな。でもね……」

 坂を下るのは、一大事である。
 まず、ケアマネジャーに連絡して、介護タクシーの手配。キヨさんを負ぶって階段を下りてくれるヘルパー、病院に付き添うヘルパーを手配。もちろん紹介状を書いて眼科を予約して……。大騒動だ。ペーシェントファーストはもちろんだが、キヨさんも確実にかなりの体力を消耗する。
 事態を想像しながら、さらに問診する。
「このカレンダーの字は読める?」
 1メートルほど離れた壁に掛けてあるカレンダーの文字を指した。
「じゅうろく」
 正解。痛み、痒み、目やに、視力低下、外傷のエピソードもないようだ。もう一度、目をよく見る。血管の拡張はない。
「レッドアイは、緊急性の有無を見分けることが大事らしい。去年の研修医セミナーで眼科の先生が言ってたよ。おそらくこれは結膜充血じゃなくて、結膜下出血だろう。そんなに急がなくていい。経過観察でいいと思う」