
検体採取はコスタ・アトランチカ号が停泊する香焼(こうやぎ)ふ頭で行われた。(提供:長崎大学病院感染制御教育センター講師・田中健之氏)
2020年4月末の長崎港に停泊していたコスタ・アトランチカ号には623人が乗船していた。コスタ側から市の保健所にかぜ症状の乗務員(外国人)がいるとの連絡があり、4月20日に4人に行政PCR検査を行い、1人が陽性となった。
さて、ここからどうするのか? 誰が責任者となり、どのような指揮命令系統が編成されるのか。当時、そんな備えがあろうはずがなく、長崎は大混乱に陥っていた。以下、前回と同様、関係者(仮名)の動きを振り返ってみたい。
濃厚接触者ら50人について、大学の指導でコスタの船医たちがPCR検査を行う。大学病院の感染症専門家の和泉川教授は、これで検査は終わりだと思っていた。
当時の厚生労働省の方針では、発熱などの有症状者は保健所で検査を行い、無症状ならば検査はせずに2週間待機ということになっていたが、コスタについてはどうするか? 県や厚労省など行政と何度か話し合いをすることになった。
厚労省側のお役人は、官邸の要請ということで淡々と語る。
「全員検査をやるべきでしょうね。白黒つけるのが、感染症管理の原則でしょう」
丁寧な言葉の中に役人的な冷たさを感じ、和泉川の反論には怒気が入る。
「分かりますよ。でも、PCRの感度は7割です。100人の感染者のうち30人を落とす可能性があり、やり始めたら永遠にやり続けなければならないでしょう? 検査する前に、降ろして隔離が先だと思います。PCRはパンドラの箱ですよ」
「パンドラの箱……。まあ、それもひとつの考えですね。でも、まずやって、白黒つけてからじゃないと、先には進まないですよね」
「やれと言うのは簡単ですが、600人もの検査を誰がやるんですか?」
当時はまだ、PCRが簡単にできる状況ではなかった。PCRの問題を、ワイドショーも連日取り上げていた時期なのだ。
自分の部下を危険にさらすわけにはいかないとも思っていた和泉川に対して、お役人は続ける。
「いえいえ、我々がやれと命令しているわけじゃないんだなあ。分かってもらえないですかねえ。原則を申し上げているんですがね……」
水掛け論が続き、「感染症を看板に掲げる天下の貴大学がやらないと言うのなら、我々でやりましょうかね。準備はできてますが」
おそらく何の準備もなかったと思うが、誘導尋問に乗せられる形で、曖昧なまま和泉川が受けた形となった。和泉川にも、ここでつっぱねる勇気はなかったのだ。
後日、和泉川は、学長の甲野と病院長の仲尾に泣きのメールを入れている。
「はっきりとした目的もなく、誰が責任を持つかも明確でなく、曖昧なまま、混乱のまま、物事が進んでいき……」
後々、僕もいろいろ調べてみると、当時、クルーズ船内の感染勃発に関して、明確なマニュアルも法的整備もなかったようだ。横浜のダイヤモンド・プリンセス号集団感染からわずか2カ月だったし、日本の西の果ての長崎での出来事だったせいか、すべてが曖昧なままで進んで行った感がある。
田仲は感染制御教育センター講師(医師)。和泉川の部下である。メキシコ人の妻を持ち、英語とスペイン語を流ちょうに操る。「コスタ災害」では、彼の語学力が大いに力を発揮した。田仲は船内の感染が判明した翌日、同僚の太城とともに現場に派遣された。車から降りると目の前にそびえる巨大な白い高層マンションのような船を見上げた。
「でかい……」
この中に、何人の患者がいるのだろうか。背筋が寒くなった。海から吹き上げる冷たく強い風に出迎えられ、ふたりは背を丸めて歩きだした。
「4月の長崎なのに、寒すぎる」
前を歩く県の女性職員の髪が激しく揺れていた。
ふ頭に設置されたプレハブ小屋の中に入ると、白髪のでっぷりとしたコスタの白人の船医と船側の交渉窓口となる外国人(フェルナンド)と日本人(ハナコ)が、マスクを付けてパイプいすに座っていた。挨拶もそこそこに、簡単に状況を聞き、手洗いの仕方とか個人防護用具の付け方やスワブの使い方などを太城と共に指導した。船医のフェルナンドは「大丈夫、分かっているから」と繰り返し、真剣さがいまひとつ感じられなかった。
この日は保健所から提供されたスワブを使い、フェルナンドらコスタのスタッフが発熱者と濃厚接触者57人の検体を採取した。検体は、熱帯医学研究所の研究室へ運ばれた。