仁孝天皇の第8皇女和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)が誕生したとき、帝はすでに崩御されていた。父の顔を知らぬ和宮を不憫(ふびん)に思った異母兄の孝明天皇は、和宮が6歳のとき有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)と婚約を結ばせた。

 幕末、幕府は幕権強化のため公武合体論を唱え、和宮を将軍家茂(いえもち)の御台所(みだいどころ)に降嫁(こうか)させる画策をした。外国嫌いの孝明天皇は「すでに婚約者がいる」「蛮夷来集(ばんいらいしゅう)の関東へ行かせるには忍びない」と拒絶した。だが、この問題を朝権回復の足がかりにしようとする侍従岩倉具視(いわくらともみ)は「攘夷鎖国の実行を条件にいたします」と天皇を説得して内諾を得た。

脚気衝心に倒れた公武合体の犠牲者 和宮の画像

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