東北大学大学院微生物学教授の押谷仁氏

 10月末から中国で再び、感染例の報告が散発的に見られるようになった鳥インフルエンザウイルスA/H7N9。ヒトからヒトへの感染は、いまだ限定的なものに留まっている。しかし、東北大学大学院微生物学教授の押谷仁氏は、すでにヒトへの適応進展をうかがわせる遺伝子変異が認められることから、パンデミックを起こす可能性は高いとの見方を示した。さらに、ほとんどの人が免疫を持っていないため、パンデミックが起これば甚大な被害をもたらすことも推測されるとした。

 共同開催された第61回日本化学療法学会西日本支部総会・第56回日本感染症学会中日本地方会学術集会・第83回日本感染症学会西日本地方会学術集会(11月6〜8日、開催地:大阪市)の特別講演で報告したもの。同氏は「H7N9がわが国に波及する可能性は当然ある」とし、ヒト−ヒト感染が限定的な今の段階で日本に入ってきた場合にやるべきことは「感染者を早期に発見して二次感染を防ぐことだ」と指摘。そのためには、法律で規定された感染症と診断された時点で報告する現在のサーベイランスシステムではなく、「『何かおかしい』と感じた臨床医の報告に行政が迅速に対応できるシステムが必要だ」と訴えた。

 過去10年間に、新感染症の流行は3回起こった。2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)、2003年からの鳥インフルエンザA/H5N1、2009年のA/H1N1pdm09である。SARS、H5N1の流行は、新感染症・新型インフルエンザに対する危機意識を大いに高めた。しかし、高まった危機意識は、H1N1pdm09の流行時には国内外でさまざまな混乱を巻き起こした。

 押谷氏は「同じ鳥インフルエンザでもH5N1とH7N9のリスクは大きく異なる。コロナウイルスによるSARSとMERS(中東呼吸器症候群)もリスクは同じではない」とし、2009年の混乱が起きたのは「パンデミックインフルエンザのリスクを単一のものとしてとらえ、感染性、感受性などのリスクアセスメントに基づいた対応ができなかったためだろう」と分析する。したがって、ウイルスごとに「きちんとしたリスクアセスメントを行っていく必要がある」と強調した。このことは「インフルエンザに限らず、公衆衛生上の危機に対する基本的な考え方となりつつあり、WHOのガイドラインも含め、世界の流れになっている」という。

 では、H7N9のリスクアセスメントはどのようなものになるのだろうか。押谷氏によると、リスクの大きさは基本的に、そのリスクが起こる確率(Probability)と起きたときの被害(Impact)によって決まる。

 新たな呼吸器ウイルスがパンデミックを起こすか否かのProbabilityは、ヒトへの適応過程の進展に伴って高まっていく。ヒトへの散発的な感染が認められるStep 1、散発的なヒト−ヒト感染が起こるStep 2を経て、効率的かつ持続的なヒト−ヒト感染が見られるStep 3に至ると、パンデミックのリスクは飛躍的に高まる。

 SARSウイルスはStep 3まで進んだ。H1N1pdm09は、ヒトのウイルスとして定着するStep 4まで達した。H7N9は現時点では、ヒト−ヒト感染は限定的で、Step 2に留まっている。しかし、H7N9は感染者発生当初から、ヒトに適応するような遺伝子変異を持っていることが明らかにされている。こうした変異が稀にしか認められてこなかったH5N1とは対照的だ。

 こうしたことから、押谷氏は「H7N9は現在のところ、ヒト−ヒト感染を効率的かつ持続的には起こしていないが、種の壁をかなり越えかかっている。パンデミックを起こす条件である、ヒト−ヒト感染の効率的かつ持続的な感染というハードルは、H7N9ではかなり低いのではないか。パンデミックを起こす可能性は高い」と指摘した。

 一方、Impactは、感染性と病原性によって規定される。感染性は感染者数や罹患者数で評価され、病原性は重症者数や死亡者数で評価される。

 H7N9においては、これまでの感染報告例が139例で、うち45例が死亡している。ここから算出される致死率は、約32%ときわめて高い。しかし、押谷氏は「実際の致死率が30%超ということは考えられない。少なくとも現時点はあり得ない」と断言した。

 中国では、重症例を中心にウイルス検査が実施されており、感染者の全体数を把握できていない可能性が指摘されている。押谷氏も、重症でない患者は相当な数に上り、致死率の分母となる感染者の総数は今よりもはかるかに多いと見ている。感染性が過小評価され、病原性は過大評価されていると言えるかもしれない。

 ただし、病原性を甘く見てもいけないようだ。「H7N9のようなH7亜型ウイルスは、少なくとも100年以上、ヒトの間で流行したことがない。だから、人類のほとんどはH7亜型ウイルスに対する免疫を持っていない」と押谷氏。成人、特に高齢者で高い抗体保有率が認められていたH1N1pdm09とは大きく異なる。このため「H7N9がパンデミックを起こした場合には甚大な被害が予想される。少なくともH1N1pdm09のパンデミックを上回る被害になることは間違いない」と警告した。

 さらに、H7N9では、重症化例や遷延化例で、タミフル、リレンザに耐性を示す変異(Arg292Lys)が見つかっている。また、死亡したH7N9感染者には高齢者が多く、高齢者率の高いわが国では被害が一層大きくなる危険性もあるという。

 したがって、H7N9のパンデミックが起こった場合には、早期に正確なリスクアセスメントが望まれる。ところが、押谷氏は「早期の正確なアセスメントは、現実にはまだ難しい。方法が確立されていない。特に、致死率を正確に計算する方法はない」とした。前述のように、重症度評価の分子(重症者・死亡者数)は分かっても、分母(軽症者を含めた感染者の全体数)が正確に推定できないからだ。また、流行の進展とともに、疫学像や重症度が刻々と変化することも、アセスメントを難しくする。今、リスクアセスメントを行うとしたら「ウイルス学的な指標、入院率、ICUの人工呼吸器使用率などを総合して、重症度や感染性を判断せざるを得ない」という。

 こうしたなかで、もしもわが国にH7N9が入ってきたとき、現段階で行うべきことは何だろうか。押谷氏は「中国は日本からの直行便が非常に多く、日本に波及する可能性は当然ある」としたうえで、「今のところ、効率的なヒト−ヒト感染は起きていないのであるから、やるべきことは、国内の患者を早期に発見して二次感染を防ぐことだ」と述べた。

 しかし、この早期発見が、現在のわが国のサーベイランスシステムでは難しいようだ。法律で疾患を規定し、その疾患が見つかったときに報告する義務を課すというシステムだからだ。押谷氏は「SARSのときに中国で機能しなかったサーベイランスと同じ構造。新たな感染症には対応できない」「国際的な枠組みである国際保健規則(IHR)にも対応していない」と指摘した。

 どんなシステムが求められるのか。押谷氏は「多くの場合、最初に患者に接するのは臨床医。その臨床医が『何かおかしい(unusual)』と感じることが出発点になる。そう感じた臨床医の報告に行政が迅速に対応できるシステムが必要だ」と訴えた。欧米ではすでに、こうしたシステムが整備され始めている。

 「日本の感染症危機管理は、起きたことには対応するけれども、起きるかもしれないことにはなかなか対応できない」。押谷氏は、こう述べて講演を締めくくった。