H5N1ウイルスを5カ所変異させたら、フェレットに感染しやすくなった――。この報告をめぐり、バイオセキュリティ専門家とインフルエンザ研究者の間で侃々諤々の議論が沸騰している。「テロリストに利用される」「いやいや、発表しなけりゃ監視のしようがないじゃないか」などなど。

 発端は、オランダ エラスムスグループの研究だった。鳥インフルエンザH5N1ウイルスの遺伝子を5カ所変異させるとフェレット感染が容易に成立すること、そして、その5カ所の変異は、それぞれ別々にではあるが、すでに自然界に存在していることをサイエンス誌に投稿した。しかし、同誌はNational Science Advisory Board for Biosecurityに送り、掲載の是非を諮ることにした。このボードの結論は、強制力を持たないものの影響は大きい。

 バイオセキュリティ専門家らの懸念は2つ。まず、これが掲載されると、テロリストがこの論文を青写真に遺伝子操作を加えバイオテロを起こす可能性があるというもの。もう1つは、同様の研究があちこちの研究室で行われるようになると、そのうちのどこかで漏れ出す(escape)可能性が出てくるというものだ。最初の懸念もさることながら、もう1つの可能性については、ソ連型H1N1の例をひいて指摘されているのだ。ソ連型は、1977年に現在のロシアか中国のどこかの研究室から漏れ出して、流行に至ったと考えられている。

 実際、筆者も前職のとき、北京での在勤時代に同様の経験をした。SARSが大流行をしたのは2003年春のことだが、それが一旦収まった翌年の2004年に散発的発生があり、「患者が○月×日の○○列車○号車○列席に乗車。その前後3列に乗った乗客は申告されたし」といった記事が現地紙に載ったりした。その後の調査で、この原因が研究室からの漏出だと報じられた。決められた手順を守っていなかったとの報道もあったのだ。

 もちろん今回の件では、インフルエンザ研究者もしっかり反論している。掲載をブロックしてしまったら、H5N1ウイルスのどの部位の変異を監視すればよいか分からなくなってしまう。そもそも「自然」こそが(テロリストなぞよりも)新型ウイルスを創り出す恐ろしい存在なのだから、と。

 この論争、9月に地中海のマルタ島で開催された国際インフルエンザ会議に端を発し、今日に至っているのだが、最近になって、繰返し報道されるようになった。筆者は最初の報道を読んだ時点で、バイオテロを警戒してサイエンス誌レベルの論文掲載を(ボツの可能性もある)延期措置なんてなんと勿体ない。たっぷりのインパクトファクターを目前におあずけ喰らったオランダ人研究者たちの胸中いかばかりか・・・と思ったものだ。テロリストの立場からみたら、インフルエンザなどという非効率なものはまず考慮の対象外だろう。H5N1の死亡率はせいぜい60%、しかもこの数字には先般のバリ島クラスタ例のように受診が著しく遅れたケースも少なからず含むわけだし、エジプトではさらにガクンと数字が落ちる。旧来のタミフルだっていくらか奏功している形跡もある。バイオテロやるならもっと効率の良いものがあるではないか、そんな間抜けなテロリストは居るもんかと。

 しかし、最近の海外報道の継続ぶり1)2)3)を見ていると、ことはそう簡単ではなさそうだ。「ヒト‐ヒト感染する“見えない兵器”がどこかでうっかり漏れ出すかもしれないこと」、あるいは「ある意志をもった人間が利用するかもしれないこと」の心理社会的影響は計り知れない。実際、日本人がひとりも感染しなかったにもかかわらず、SARSや鳥インフルエンザが騒がれたときの現地日本人社会のあの動揺ぶりを見聞きした身には、なかなかにインパクトのある論争なのだ。

 はたして皆さんは、今回の論争をどう思われるだろうか。

*編集部から
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■参考資料
1)Debate rages over new bird flu research; some argue it's not safe to publish
2)Malta flu conference comments spark bioterrorism alarm
3)Bioterror fears could block crucial flu research

 過去のパンデミック時と今回の大きな違いの1つは、インターネットによる情報提供が力を発揮していることだろう。2003年のSARSの流行時に、北京で日本大使館医務官だった勝田吉彰氏(近畿医療福祉大学)は、「ちぎっては投げ方式でこまめに情報提供をすることで、現地の日本人社会の不安を和らげた」と振り返る。新型インフルエンザが騒がれるようになってからは、このときの経験を元にブログ「新型インフルエンザ・ウォッチング日記」を立ち上げ、日々情報を発信し続けている。最近はツイッター(http://twitter.com/tabibito12)でも情報発信に取り組んでいる。勝田氏に「今、忘れてはならないこと」を綴っていただく(「パンデミックに挑む」編集)。

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