5月9日。成田空港で国内初の新型インフルエンザ感染者が確認された。中津病院のプロジェクトチームも、にわかに慌しくなっていた。最大の理由は、関西国際空港での検疫の応援だった。8日から毎日、医師1人、看護師1人が駆けつけた。その一方で、同病院の臨時発熱外来の運用にも当たるという日々が続いた。そして16日。神戸で国内初の渡航暦のない感染者が確認され、翌17日には大阪府下の高校で多数の感染者の報告があった。

写真1 小児専用の発熱外来

 5月16日。土曜日であったが、中津病院は通常の診療日であった。神戸での発生情報は、その日のうちにプロジェクトチーム内で共有されていた。「この日、院長が小児専用の発熱外来(写真1)の設置を決断した。病院としても国内発生期に応じた体制に切り替えた」(プロジェクトチームリーダーの坂東憲司氏)。

 5月18日月曜日。救急室ラウンジ内に「新型インフルエンザ対策本部」が設置された。このときから院長も含め、毎日、臨時プロジェクト会議が開かれた。会議の結果は、模造紙に書き、壁に張り出されていった(写真2)。

写真2 対策本部の壁には、会議で決まったことを記した模造紙が張られていった。

 この日に決まったのは、まず、全職員への通達だった。勤務中はサージカルマスクを着用すること、会議は最小限とすること、発熱症状のある職員は申し出た上で出勤制限措置とする−−がその内容だった。

 同時に患者へのアナウンス内容も決まった。5月18日から、デイサービスを中止するとともに、入院患者への面会を禁止し、また入院患者の外出・外泊も禁止することとなった。面会については16日にすでに、必要性の高いものに制限することにしていた。新型インフルエンザウイルスが院内に侵入する機会を減らすための措置だった。

 発熱外来の運用については、国内発生疑い例が発生した5月16日時点で、小児については病院玄関のロータリー横にテントを設置して発熱外来とすることが決まっていた。成人は、同病院中棟1階会議室に設置済みの臨時発熱外来を当てた。

 「小児の場合、親が連れ添ってくる。その分、発熱外来の待合が込み合うことになる。患者さんらの間隔を、ある程度の距離、空間を保った状態とするには、小児は成人と別にするのがよいと判断した」(小児科副部長の大和謙二氏)。発熱外来で感染が広がることを極力防ぐ手立てだった。

 オープン時間は、朝9時から午後5時まで。午後5時以降は翌日の朝9時まで、成人と同じ、同病院中棟1階会議室に設置済みの臨時発熱外来で対応することとした。24時間対応は、特に、子どもの急な発症などへの対応を考慮した上でのことだった。

 18日の会議では、管理日誌の作成も決まった。また、発熱外来で医療に従事する職員のリストアップも決まった。

 職員のリストアップについては、新型インフルエンザ対策プロジェクトチームが進めてきた準備が効を奏した。チームは、全職員を対象に、あらかじめ、新型インフルエンザが発生した場合に病院勤務が可能かどうかについて、一人ひとりの意思を確認するためのアンケートを実施していた。結局、受付の担当も決まり、医師、看護師、検査技師については、各部署からローテーションで発熱外来を担当することになった。実は、各部署に対してもあらかじめアンケート調査を行っていた。どのようなシフトであれば発熱外来に人を出せるのか、など部署ごとの具体的な考えを把握していたのだ。

 この日、大阪府下の小中学校は1週間休校に入った。また、大阪市保健所と済生会本部などから、発熱外来用に個人防護具が届いた。

 結局、18日に中津病院の発熱外来を受診した人は、小児10人、成人37人だった。全員、陰性だった。最大で80人の来院を想定した体制を組んでいたため、滞りなく対応できたという。

 プロジェクトチームのメンバーの中にも、不安がなかったわけではない。成人の発熱外来を担当していた臨床教育部部長の伊藤和史氏は、「弱毒であることが分かったことは安心感を与えていた。ただ、いつまでこのような状態が続くのかという先の見えない不安感は、確かにあった」と振り返る。

 それを癒すものはなんだったのか−−。医療安全管理者の奥村和子氏は、「仲間で声を掛け合ったことでしょうか」と話す。根底では、医療人としての使命感も支えとなっていたとも。もちろん、過重労働にならぬように配慮された勤務シフトは、長期戦に臨む上で必須条件であったに違いない(同病院の勤務シフトについては、こちらに掲載されている)。

写真3 左から1人目が臨床教育部部長の伊藤和史氏。右から1人目が医療安全管理者の奥村和子氏