インフルエンザ研究者交流の会が開催した臨時シンポジウム

 7月26日。インフルエンザ研究に携わる専門家らの交流会(会長;国立病院機構仙台医療センターの西村秀一氏)が臨時シンポジウムを開催した(写真)。テーマは「H5N1インフルエンザプレパンデミックワクチンを考える」。厚生労働省が示したプレパンデミックワクチンの今後の方針について議論することが目的。5時間近くに及んだ議論の中から、プレパンデミックワクチンの力量とその限界の一端が見えてきた。

 臨時シンポジウムを開いたきっかけは、4月15日にさかのぼる。この日の閣議後の記者会見で舛添要一厚相は、1000万人分の追加備蓄、有効性や安全性を評価する研究の実施を柱とするプレパンデミックワクチンの今後の方針について、新型インフルエンザ専門家会議に諮ることを明らかにした。さらに、研究によって有効性と安全性が確認されれば、医療従事者をはじめとする社会機能維持者1000万人への事前接種を検討する意向も表明した。

 翌4月16日。新型インフルエンザ専門家会議は、こうしたプレパンデミックワクチンの方針(表1)について議論し、最終的に了承した。これで正式に、舛添厚相が自ら「現実に実行に移されれば世界で初めての対応」と評したプロジェクトが動き出すことになった。

表1 プレパンデミックワクチンの方針(厚労省)

 だが事前接種については、希望すれば一般国民にも接種する方針であるかのような先走った解釈が一人歩きしたこともあり、混乱が広がった。今回の臨時シンポジウムで厚生労働省の方針を説明した新型インフルエンザ対策専門官の山口貴志子氏は、未だに「国民全員に接種すべきではないか」「いつから接種するのか」などとする声が届くと話した。

 確かにプレパンデミックワクチンの方針には、2009年度に「医療従事者等・社会機能維持者1000万人への事前接種の検討」の結果、「高い水準での安全性が確認された場合」に「上記以外の者への事前接種のあり方の検討」と記されている。この段階に至ってようやく「一般国民への事前接種」を検討するのであり、現時点では実施するのかどうかさえ決まっていないことを、まずは理解すべきだろう。

 臨時シンポジウムを主催した西村氏は、プレパンデミックワクチンの方針を巡る議論の不透明さも混乱の一因とみる。仮にこのまま一般国民への事前接種が始まり、もしも「紛れ込み」や副作用が多発した場合には過剰反応が起こりうる。その結果、国民の中にワクチンに対する不信感が広がり、ワクチン事業そのものが停滞してしまう。こうした最悪のシナリオが臨時シンポジウムの開催を急がせたようだ。西村氏によると、「紛れ込み」とは、大規模接種に伴って生じたが、恐らくはワクチン接種とは無関係に偶発的に起きた死亡例のことを指す。

 開催に至る経緯を説明した西村氏は、米国が経験した豚型インフルエンザの教訓を引き合いに出し、「日本の現状は、米国の過ちを繰り返しているようにみえる」などと指摘した。

 米国の教訓とは、1976年2月に、米国ニュージャージー州の陸軍訓練基地フォート・ディックスで、兵士の間で発生した豚型インフルエンザの集団発生のこと。このウイルスはH1N1型で、1918年に大流行し世界中で4000万人以上という死者を出したスペイン・インフルエンザウイルスと抗原性が類似していたため、スペイン・インフルエンザの再来になるのではと危惧された。18歳という若い兵士が死亡したこともあって、緊急対策の必要性を訴える声が主流となり、当時のフォード大統領は緊急予防接種計画を宣言。総ての米国国民に豚型インフルエンザワクチンの予防接種を受ける機会を提供し、それに必要なワクチンを早急に製造するとの対策を打ち出したのだ。しかし、結局は患者12人、死亡1人という集団発生で終わり大流行には至らなかった。

 だが、それだけでは済まなかった。

 1976年10月から予防接種キャンペーンが開始されたが、「紛れ込み」と呼ばれる接種者の死亡例があちこちで起き、それを行政が正しく説明できないうちにマスコミが報道したことが予防接種に対する批判を呼び起こした。加えて、同年11月末ぐらいから接種者の間でギラン・バレー症候群の発生が報告され始めた。このため緊急調査が行われることになり、その結果、接種者からのギラン・バレー症候群の発生は非接種者の約7倍であることが判明。結局、同年12月には、フォード大統領が主導した接種キャンペーンは中止になった。

 パンデミックは起こらず訴訟だけが残ったと揶揄される事件だが、その後、なぜこのような政策が打ち出されたのか、その政策決定プロセスを詳細に分析し評価したレポートがいくつか発表されている。“The Epidemics That Never Was”(Richard E. Neustadt、Harvey V. Fineberg)もその1つ。

 西村氏はこのレポートから以下の3点を提示した(表2)。政策決定プロセスには、さまざまな圧力が重なり合うことも事実。プレパンデミックワクチンに限らず、新型インフルエンザ対策のさまざまな政策決定に際しては、米国の教訓を常に意識することが必要だろう。

表2 The Epidemics That Never Wasの指摘する反省点(西村氏による)

 ・「いわゆる」専門家をいわれる人たちの暴走、不確実性に関する脅かしを許し、また利用しようとした人たちの存在
 ・そうしたことを防ぐための、専門外であってかつ科学的なGood senseを持った人材集団による冷静なレビューのメカニズムの欠如
 ・いったんことを始めようとする際、始める前にあるいは途中で再検討するメカニズムの欠如

H5N1型に対応したものに過ぎない

 なぜ、プレパンデミックワクチンの方針に事前接種が盛り込まれたのか。

 もともと、厚生労働省が昨年定めたガイドラインによると、フェーズ4が宣言された段階でプレパンデミックワクチンの接種を開始することになっていた。しかし、現在のフェーズ3の段階でも「接種をすべきという世論というか専門家の間でも意見が出てきた」(厚労省感染症対策企画調整官)ので、ガイドラインには従わず事前接種を盛り込んだという説明になっている。臨時シンポジウムでは、「フェーズ3でも事前接種をすべきという専門家の声」を疑問視する専門家が圧倒的だった。

 では、フェーズ3の段階で事前接種する理由とは何か。4月16日の新型インフルエンザ専門家会議の議事録をたどると以下の3点が浮かび上がる。1点目は、WHOがフェーズ4(海外でヒト−ヒト流行が確認された段階)を宣言してから、実際に免疫ができあがるまでの時間だ。現在備蓄しているプレパンデミックワクチンは、原液の状態で保存している。このため、接種するワクチンを作るまでに1カ月半ほど時間がかかるという。さらに人に接種後、免疫ができるまでに3〜4週かかる。合計2カ月半ほど時間が必要になる。

 現在の交通機関の発達を考えれば、全世界に流行が拡大するのに2カ月半もかからないのではないか。つまり、WHOのフェーズ4宣言があってからプレパンデミックワクチンを接種し始めても間に合わないかもしれない、という危機感が背景にある。

 2点目は、原液の有効期間。現在の予測では3年ほどと見込まれている。このため、2006年度に作ったプレパンデミックワクチンは来年、廃棄しなければならなくなる。せっかく作ったのだから有効に使う方法はないのか。その答えの1つが事前接種だった。

 3点目は、事前接種によって基礎免疫をつけておけば、症状の軽減が期待できるのではないかという期待感だ。

 とはいえ、現在進められているプレパンデミックワクチンは、H5N1をターゲットにしたものであることを忘れてはならない。最近、H7型がヒトに感染しやすい形に変わってきているという米国CDCの論文が発表されたばかり(関連記事)。H5N1以外のウイルスが新型になった場合、備蓄しているプレパンデミックワクチンは、効果が期待できないのだ。

国産H5N1型プレワクチンの力量は

 臨時シンポジウムでは、国産H5N1型プレワクチンの力量にも疑問符が付いた。

 神奈川県警友会けいゆう病院小児科部長の菅谷憲夫氏は、欧州医薬品庁(EMEA)の新型インフルエンザワクチンのガイドラインに基づいて、国産のH5N1プレワクチンと海外のプレワクチンを比較したデータを提示した(表3)。

表3 国産のH5N1プレワクチンと海外のプレワクチンの比較(菅谷氏による)

 それによると、国産のプレワクチン(北研)は、抗体変化率の1つしかEMEAガイドラインを満たしていないことになる。一方の海外のプレワクチン(GSK)は、抗体陽転率、抗体変化率、抗体保有率とも基準をクリアしており、それぞれの数値は、国産(北研)に比べかなり高いレベルにあることがうかがえる。

 菅谷氏は、国産と海外のプレワクチンでは、免疫原性の差は大きいと指摘。海外のプレワクチンの方が発病防止、さらには重症化防止効果が期待できると考察した。

 また、1回分のワクチンに必要な抗原量は、国産が15μg、海外が3.8μgである点を指摘。ワクチン製造にとって鶏卵確保がネックであることを考えると、緊急に大量の製造が必要となるプレワクチンとしては海外プレワクチンの方が「極めて有利」(菅谷氏)と結論した。

 その上で菅谷氏は、フェーズ3の今やるべきことは、海外プレワクチンとの比較であり、日本のプレワクチンの改良のための研究であると訴えた。

 思い出していただきたい。現在のプレパンデミックワクチンの備蓄(約2000万人分)は原液の状態で行われている。小分け製品にする前にアジュバントを加える過程をたどる。

 仮に予想通りにH5N1がヒトの新型インフルエンザウイルスになった場合、国産のプレパンデミックワクチンにこだわれば2000万人分しか作れないことになる。ここでアジュバントの改良という研究を行えば、たとえば海外のアジュバントを導入した研究を行えば、単純計算で4倍の8000万人分を作れる道筋が開けることになる。

 西村氏が指摘した米国の教訓の3点目に、「いったんことを始めようとする際、始める前にあるいは途中で再検討するメカニズムの欠如」があった。プレパンデミックの今後の進め方にあっては、「途中で再検討するメカニズム」が機能することを期待したいものだ。

(三和護=日経メディカル別冊)