沖縄県・宮古島にあるドクターゴン診療所は、離島という地域特性を踏まえ、在宅診療を中心にした医療に取り組んでいる。院長の泰川恵吾氏は、高齢の慢性疾患患者の在宅生活を支えるために訪問診療に力を入れ、超音波エコーのVscanを診療に役立てている。

 34歳のときに宮古島で開業して、15年がたちました。東京で多忙な日々を送っていた救命ICU医からの転身でした。「困っている人のために医療を提供したい」との思いを実現するため、生まれ故郷の宮古島での開業に踏み切りました。

ドクターゴン診療所
2000年、沖縄県宮古島市(当時・上野村)に開設。院長の泰川恵吾氏が、住み慣れた場所での療養を希望する「おじい」「おばあ」のために、在宅医療を中心とした医療を提供している。
写真:近藤 宏樹(他の写真も)

 当初は、亡くなった父の友人たちの協力を得て、1997年当時の平良市(現・宮古島市)の市長で、医師でもあった伊志嶺亮氏の診療所を借り、伊志嶺医院の院長として、たった一人で訪問診療を始めました。

 資金があまりなかったので、東京で勤務していた病院を回って、廃棄処分になる物品の中から使えそうなものを譲ってもらうなど、苦労もありました。そのときに買った一番高いものが、新車の「ダイハツミゼット2」でした。メタリックグリーンのボディーに、私の生まれたときからのニックネームである「ゴンちゃん」を取って、「Dr. GON」と白い文字を入れました。

 ミゼットには、超音波エコー、心電図、カウンターショック、外科処置器具や、救命処置に必要な機材を積み込み、さらに当時としては珍しい携帯電話のハンズフリー装置、パソコンが使える100ボルト電源、サーチライトなども取り付けました。

泰川恵吾(やすかわ・けいご)氏
1963年沖縄県宮古島生まれ。89年に杏林大学医学部を卒業後、東京女子医科大学第二外科入局。立川中央病院外科、東京女子医大救命救急センターICU医長、牛久愛和総合病院(茨城県)救急科医長などを経て、97年に故郷の宮古島に戻り、伊志嶺医院院長として地域医療に従事。2000年に医療法人鳥伝白川会を設立して理事長に就任し、同時にドクターゴン診療所を開設。

 ところが、97年10月に開業した後、最初の数日間は往診依頼の電話もなく、かなり焦りました。訪問診療という診察の形がまだ理解されていなかったからです。最初の訪問診療は、心電図を取ってほしいという依頼で、その家に行くと50歳代の女性が数人いました。「あら、若いわねぇ」などと言われつつ、順番に心電図を取り、喜ばれました。

 初めての本格的な訪問診療の患者は、病気の療養で家族と一緒に東京から移り住んでいた男性で、亡くなるまで訪問診療を続けることができました。

 私が心がけていたのは、まず「いい人なんだな」と患者から思ってもらうことでした。ただの医師・患者の関係では、よそよそしいだけで、長続きはしないと考えていたからです。そんな姿勢が伝わったせいか、少しずつ患者は増え、半年もすると受け持ち患者さんは50人ほどになりました。

 そして3年後の2000年に「ドクターゴン診療所」として独立し、上野村(当時、現・宮古島市)のドイツ文化村というテーマパークの中に移りました。スタッフも車両も増やし、現在は、常勤医師2人、看護師5人、事務職員など計10人のスタッフで130人以上の患者さんを受け持っています。

救命した患者の退院後の生活が気になって…
 私は宮古島で生まれました。しかし、医師でフィラリアの研究者でもあった父の勤務の都合で、小学校入学は那覇市、その後、英国・エジンバラへ転居し、小学2年のときに東京都内に移りました。それから父は開業のため、宮古島に単身赴任し、母と私、妹2人は東京に残りました。それでも春休みと夏休みには、必ず父のいる宮古島に滞在し、宮古島が好きになっていきました。

訪問診療のときは、スタッフとともに車で移動する。

 正直、小中学校では勉強の成績が悪い子供でした。高校は何とか全寮制の都立秋川高校に進み、一浪の末、1983年に杏林大学医学部に入学しました。医学部に進んだのは、医者になれば、父の跡を継いで宮古島に住むことができる、と考えていたのかもしれません。

 卒業後は、東京女子医大の第二外科に入局し、研修医時代には「最優秀新人賞」も受賞しました。その後、第二外科から救急医学教室が独立すると同時に、救命救急センターに所属して救命医療に明け暮れ、93年には救命ICU医長になりました。

 ただ、この頃から、救命した患者さんたちが退院後、どうやって暮らしているのかが気になり始めました。搬送されてくる患者さんの大半は高齢者で、救命できても、後遺症や障害が残り、元の生活には戻れない方が多かったからです。

 日々の診療において、カルテや処方箋、注射箋、紹介状、入退院関連書類、診断書など膨大な書類作業と、その非効率さに辟易していたこともあり、以前より温めていた宮古島での訪問診療の準備を進めて、97年に開業しました。