長く私たちは、何ががんを引き起こすのか、あるいはなぜ腫瘍が成長するのかを知らなかったが、がんは全身のシステムの問題(手術や薬では治せない、深刻な機能障害)に関わるものだと漠然と予感していた。

 がんは現代病であり、工業社会の罪、たとえば公害、ファストフードや加工食品、環境汚染が、その罹患率を急上昇させているという見方もあるが、私はそうは考えていない。確かに、がんは、物が過剰な現代文明の象徴のように見えるが、人類と同じくらい昔から存在し、古代の記録にも残されているのだ。紀元前3000年から同1500年までに記された、七つのエジプトのパピルスには、がんの症状に一致する記述がある。特に「エドウィン・スミス・パピルス」(1862年にエジプト、ルクソールの古物商からこの長さ4.5メートルのパピルスを購入したか、くすねとった人物にちなんで名づけられた)には、胸部の腫瘍か潰瘍の、八つの症例が記されている。おそらく紀元前17世紀頃に書かれたもので、この病気の治療法は知られていない、とあり、熱した器具で患部を焼く「焼灼術」を勧めている。

 今日の外科手術や放射線治療も、基本的にはそれと同じだ。違いは、現代では鋭利なメスと、ありがたいことに麻酔があるということだけだ。古代エジプト人は、腫瘍が良性か悪性かによって、異なるプロトコルを発達させた。これには、皮膚腫瘍の切除も含まれる。悪性腫瘍に対しては、複数の要素からなる対処法が示され、オオムギ、ひまし油、ブタの耳なども推奨された。人間ががんにかかったことを示す最も古い証拠は、青銅器時代の女性の頭蓋骨で、紀元前1900年から同1600年までのものだ。その腫瘍痕は、頭頸部がんに似ている。また、2400年前のペルーのミイラには、メラノーマ(悪性黒色腫)がはっきりと残っている。

 それから数千年が過ぎたが、その間も人間は、老いも若きも体をがんに破壊され続けてきた。より近い古代の医師のなかでも、最も洞察力があり、明敏であったのは、ローマ帝国時代(紀元2世紀)のギリシャの医学者、ガレノスで、解剖学、病理学、薬理学などがまだ揺籃期にあった時代に、疾病に関する理論をいくつも提唱した。医術を実践しながら、ガレノスはヒポクラテスの医学を研究し、その普及に貢献した。よく知られるように、ヒポクラテスは古代ギリシャ時代、紀元前400年頃の医師で、健康について多くの説得力ある理論を確立し、「医学の父」と呼ばれている。その生理学的で理性的な観察は、近代医学の土台となった。ヒポクラテスは、病気は自然に生じるものであり、迷信や神がもたらすものではないと述べた最初の人物である。さらに彼は、初めて、悪性腫瘍と良性腫瘍の違いを描写した。体の各部のがんを詳述し、進行して潰瘍化した状態を「カルキノス(karkinos)」と名づけたが、それはギリシャ語で「カニ」を意味する。

 がんがカニのように見えるかどうかは別として、カニのイメージはヒポクラテスにとってふさわしいものだった。彼が描写しようとした腫瘍は、周囲に炎症を起こした血管の隆起があり、四方に脚を広げて砂の中に埋もれているカニを連想させたのだ。彼が念頭においていたのは、内臓のがんではなく、体の表面に近いか、表面にあるがん(胸、皮膚、首、舌などの腫瘍)だったのだろう。

 ヒポクラテスの理論を土台として、ガレノスの概念は築かれた。そのいくつかは、がんの特徴を正しく捉えている。ガレノスはがんを、「治りにくく容赦のない体の一部」と表現し、そのメカニズムをこう説明した。

 広範囲に及ぶ過剰な「黒胆汁」が、がんを根づかせ、簡単に除去できないようにしている。黒胆汁は全身に侵入し、それに伴って腫瘍も広がる。これらの腫瘍を切除するのは難しい。なぜなら、黒胆汁がその切除跡を満たすだけでなく、ほかの腫瘍を成長させるからだ――。

 洗練された医学用語もなければ、当然ながらシーケンサー(遺伝子解析装置)や顕微鏡もない時代に、ガレノスは、がんの一般的な性質と、その全身への広がり、増殖、再生について、実に的確に描写したのである。

 ガレノスの理論の多くはルネサンス時代まで受け継がれ、19世紀に至っても、医学生はガレノスの著作を学び続けた。19世紀になって、顕微鏡でがん細胞を調べた病理学者は、皮肉な事実を発見した。がんの実体は「黒胆汁」などではなく、異常に増殖した私たち自身の細胞だったのだ。もっとも、境界を破壊し、他の組織を略奪する手に負えない存在、という意味では、黒胆汁と同じと言えるかもしれない。がん細胞に共通して見られるのは、異常な形状だけでなく、盛んな細胞増殖、止めどもなく進む、コントロールの利かない細胞の成長である。