東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故が長期化の様相を見せており、低線量の放射線被曝に対する懸念が広まっている。原子爆弾のような瞬間的な大放射線量の被曝と異なり、低線量の長期被曝に関する医学的なデータは十分とはいえない。この問題はアスベスト禍などを代表とする環境発がんリスクの問題と共通する部分が多い。こうした“目に見えない脅威”を科学的に検討する専門機関(国際環境発がん研究センター)の必要性を順天堂大学病理・腫瘍学教授で、がん哲学外来でも著明な樋野興夫氏が提唱している。

 今回の事故の最も注意すべき点として樋野氏は、未曾有の事態であり、専門家の多くが、確固たるデータに基づいた定見を持つことが出来ないでいることだと指摘する。「低線量放射線による被曝が、持続した場合の健康被害については、なお曖昧な部分が多い。テレビに登場する専門家の中には、極端に楽観的な専門家と悲観的な専門家が登場するが、本当のところは明らかになっていない要素が多い。曖昧なところは曖昧と説明することが真の意味での科学的な姿勢」と語る。そして、見え難い環境発がんリスクについては「先憂後楽」の姿勢で臨むべきだという。つまり、「最初から最悪の状況を想定し、それにうろたえることなく、冷静に問題解決に当たる姿勢が大事だ」と強調する。

アスベスト禍と低線量被曝の共通点

 大気中や海洋に漏出する放射能物質に対する恐怖心は大きく、多くの外国人が国外退去しており、日本人でも東海や関西に避難する関東在住の市民の姿が見られる。しかし、一方で、放射能物質により広汎な環境汚染を引き起こした旧ソ連のチェルノブイリ原発事故でも、子供時代に被曝した市民の6000名に甲状腺がんが発生した(死亡者は2005年時点で15名)ものの、成人の中では固形がんも造血器腫瘍の増加も認められず、放射線被曝の晩期障害に対する恐怖を過剰と指摘する専門家もいる。

 樋野氏は過度に悲観的であることも、また楽観的であることも双方ともに間違っており、現在必要なのは“慎重な楽観主義”であるという。「アスベストの問題も、30年前に既に発がん性が問題になっていたが、その発症頻度はきわめて低率であったために、軽視されてきた。しかし、アジアをはじめ世界各国でアスベストの使用が普及するにつれ、患者が増加してきた。放射線のような低頻度の環境リスクの重要性を考える上でアスベストは参考になると思う」という。

 こうした目に見え難い環境発がんリスクを科学的に評価するためには、新しい科学が必要であり、そうしたデータを集積し、解析するための国際的で中立的な研究組織が必要というのが、樋野氏の考えだ。同氏が国際環境発がん研究センターは、アスベスト禍も原発事故に伴う放射能物質の遺漏も、1つの国にとどまる問題ではなく汎世界的な問題であるという観点から国際的な機関として位置づけるべきだという。

「21世紀の知的協力委員会」を早急に組織せよ

 今般の原発事故では政府や関連機関、電力会社からの国民に対する情報提供のあり方が社会的な批判を浴びている。繰り出される情報が断片的であり、先が見えない不安を国民の間に醸し出す結果となっている。しかも各機関の情報の間に整合性が取れないケースもあり、混乱と不信感を助長しているとも指摘されている。樋野氏は、同氏が敬愛する新渡戸稲造が1922年に国際連盟に設立した“知的協力委員会”のような知的巨人が参集し、国家の命運を握る大方針を議論すべきと考えている。

 この委員会には哲学者のベルグソンや物理学者のアインシュタイン、キュリー夫人らが委員として参加、第1次世界大戦後に困窮が著しかった各国の生活水準の調査や知的財産に関する国際条約案を検討し、各国の利害調整にあたった。この方式に倣い、今回の災害対策を鳥瞰的に議論するために、各被災地の困窮度マップを早急に作成すべきだと樋野氏は言う。「大きな避難場所には医療ほかの救済の手が伸びているが、まだ孤立した集落が点在している。これらの中には十分な救援の手が伸びていない可能性がある。困窮度マップを作成し、遺漏のない救済策を講じる必要がある」と語っている。