写真7 客席から自衛隊中央病院内科部長の箱崎幸也氏(立位)が自衛隊における準備状況を説明した。

 キューブラー・ロスは、著書『死ぬ瞬間』の中で、病名を告知されたがん患者の心理状況が、否認、怒り、取引、抑うつ、受容という5つの段階で変遷することを報告している。長谷川氏によれば、この心理プロセスが原発事故に遭遇した医大のスタッフにも見られた。

 同大学では地震から半年を経過した現在も、除染業務担当自衛隊、学外医療チームの支援のもと緊急被曝医療体制を維持している。毎朝多職種会議で知識を充填、原発の最新情報、達成事項、未解決問題を明確化する作業を続けている。

 「“フクシマ”に暮らすメリット、放射線によるデメリットを正しく比較し、判断、行動するための情報提供を行うことも我々の責務である。私は新潟出身ではあるが、福島が大好きであり、これからも福島に住み続けたいと思う」と締めくくった。

写真8 放射線モニタリングの状況を報告した日本放射線技師会の諸澄邦彦氏。

放射線技師が遺体の放射線量も測定
 避難所や検案(検死)前の遺体の放射線サーベイには現在も放射線技師らがあたっている。サーベイ作業に従事する放射線技師(サーベイヤー)を派遣している日本放射線技師会からの報告もあった。報告した諸澄邦彦氏(埼玉県立がんセンター放射線技術部副部長)によると、3月13日に内閣府原子力委員会と厚生労働省医務指導課から放射線サーベイヤー派遣の依頼が日本放射線技師会にあり、技師会の募集に全国から12名の放射線技師が応じ、福島県での活動を開始した。さらに4月には福島県警察本部から検案前の遺体に対する放射線サーベイの依頼があり、遺体の放射線サーベイも開始した。

 3月16日から4月17日に55名の放射線サーベイヤーが派遣され、放射線サーベイ終了後にはスクリーニング済証を発行する業務も行った。検案前の遺体の放射線サーベイには4月11日から6月末までで630体を数えたという。

写真9 代表幹事の前川和彦氏は研究会を学会に昇格させ、活動の強化を提案。

 遺体の放射線サーベイに従事するサーベイヤーには60歳を超えた「人生の先輩たち」(諸澄氏)を中心に派遣したという。「数多くの遺体に接することを考えると人生経験が豊富な技師の方々が適任と考えた」からだ。しかし、それでも技師たちにかかったストレスは無視できないものがある。「夜、作業報告の電話で、『今日、検案した乳児はおんぶ紐しかつけていなかった』と話す人もいた。ちょうど、その方の孫と同じくらいだった」

急逝した福島県放射線技師会長
 そのような状況が続くなか、技師会に衝撃が走る事件が起こった。日本放射線技師会理事で福島県放射線技師会長であった鈴木憲二氏が、震災から4カ月後の7月16日に急逝したのだ。「深夜に変調に気づき、救急搬送で病院に到着した時点で心肺停止状態だった」(諸澄氏)。

 鈴木(憲)氏は、事故直後から長期にわたる福島県への放射線サーベイヤーの派遣計画を策定する上で中心的な役割を果たした。その後も、全国から応援に入る技師と現場の仲立ちとなって活動していた。

 「昼夜の区別なく働いていた。全国から集まった技師らが活動しやすいようにといろいろと配慮し、夜は技師らが宿泊するホテルに缶ビールなどの差し入れも行っていた」(諸澄氏)。激務が直接の死因となったかは明らかではないものの、技師らの間では「戦死」とささやかれている。被災した住民だけではなく、復興対策にあたるスタッフの心身の管理も行うシステムの重要性を物語る事例といえるだろう。

写真10 パネルディスカッションではリスクコミュニケーションのあり方などが議論された。

専門家間のコミュニケーションにも課題
 今回の福島第一原発事故では、いくつかの課題が浮き彫りになった。

 鈴木氏は、とりわけ大きな問題として「OFCが本来の役割を果たせなかった」ことを挙げ、「OFCで行政や防災関係者、事業者や原子力の専門家が情報を共有し、意思決定し、情報発信するという仕組みが機能しなかった」と指摘した。原子力災害対策特別措置法の想定とは異なり、全ての意思決定が政府対策本部に一元化されたことも関係者間での情報共有という面では事態を混迷させる一因となった。

 福島県立医大の長谷川氏は、国民・福島県民とのリスクコミュニケーションでは、「原子力や放射線の専門家の間で、発信された情報に矛盾したものがあったことが事態を複雑にしてしまったのではないか。このような事態では特にリスクコミュニケーションの重要性が問題にされるが、専門家間の見解の違いが健全なリスクコミュニケーションを実現する上で障害になったのではないか」と問題を提起した。鈴木氏は、「今回のオペレーションで何ができて、何ができなかったかを今後も検証し続ける必要がある」と総括した。