分子生物学的特性への作用
 標準的治療薬は標的を持つ細胞にしか効かない。即ちall or nothingである。対照的に殺細胞性抗悪性腫瘍薬は正常細胞をも含め全ての細胞に対し効果を示す。即ち無効の範疇に入る場合であっても細胞増殖に対し、何らかの影響を与える。従って両者は見かけは同じ奏効率であってもがん全体に及ぼすダメージはかなり異なると思われる。

 同じ対象の患者を相手に分子標的治療薬と殺細胞性抗悪性腫瘍薬の比較試験を行った場合、説明不能な生存曲線が得られるのはこの理由による(後述)。一方、がん環境に作用するタイプの分子標的治療薬は単独投与では腫瘍縮小効果を示しにくく、仮に認めたとしてもそれに至るまでにtime lagのあることが予測される。殺細胞性抗悪性腫瘍薬との併用では局所の血流の改善による局所の薬剤濃度上昇により、有意な奏効率の向上とPFSやOSの改善が認められている。

“イレッサ”の誕生
 2003年、“イレッサ”が日本に導入された当時、開発した英国AstraZeneca社の副社長であるGeorge Blackledge先生と東京大学医科学研究所教授の中村祐輔先生を交えた座談会に出席する機会があった(がん分子標的治療2003,1;6-16)。“イレッサ”は上皮性増殖因子受容体(Epidermal Growth Factor Receptor:EGFR)のATP結合部位に作用してチロシンキナーゼ活性を阻害することにより抗腫瘍活性を発揮する低分子物質であり、英国のアストラゼネカ社が開発した。Blackledge先生は、「AstraZeneca社も30年以上乳がんを中心としたがんに対して、エストロゲンあるいはアンドロゲン受容体、及びエストロゲンを産生する酵素を標的とした創薬を行ってきた。これを分子標的治療と呼べるものか否かは別として標的治療の概念に合致したものであり、会社のポリシーとして誇り得るものである。基本的にAstraZeneca社の目指す薬剤は、(1)副作用の少ない化合物、(2)がん細胞選択性という概念をベースとしてがんに関連する他の生物学的効果の領域に移行することができる酵素阻害薬、(3)実地医療の目から使用可能な薬である」と述べている。

 Blackledge先生は、「分子標的治療薬の条件として、(1)薬剤が標的分子に対し、適切な選択性を有していること、(2)安定性や吸収性など適切な物理学的特性を有していること、また臨床試験プロトコルの問題として(3)殺細胞性抗悪性腫瘍薬と比べ、より明確(適切)なデザインで行う必要があること」を挙げている。

 この時の記録(2002年10月に収録)によると彼は「“イレッサ”はEGFRに作用しますがEGFR変異は必要でなくこの場合に得られる奏効率は10〜30%ですが、受容体や特定の酵素を標的とする場合、それらに点突然変異がある場合、奏効率は劇的に増加するのだと思います」と述べている。この件りはイマチニブが変異c-kitを持つ消化管間質腫瘍(GIST)に高い奏効率を示すことを解説した後の発言である。前半は間違っているものの後半は見事に正しい予測をしている。2004年4月まで1年半前のことであった。

 筆者は後で紹介するわれわれの実験結果に考え及ぶべくもなかった。逆に「“イレッサ”はEGFR-TKを100%抑制するがその下流は必ずしも失活するのではない。従って結果として無効例も多い」という説明は説得力を持ったものであった。 Blackledge先生はまた盛んに「できるだけ上流のシグナル伝達分子を標的とすることによって高い選択性を得ることができる」と強調していた。このようなアイデア・発想の下、“イレッサ”は誕生したのである。

“イレッサ”との出合い
 著者と“イレッサ”との出合いは、著者が国立がんセンター研究所薬効試験部(現在は存在しない)長の職(1989年〜97年)にあった頃であった。当時、薬効試験部室長であった西尾和人先生(現在近畿大学医学部ゲノム生物学教室講座教授)は、一般の研究者とはかなり異なる発想をしていた。すなわち、殺細胞性抗悪性腫瘍薬が効果を発現する主たる機構がシグナル伝達機構の阻害にあると考え、がんの分子標的治療を先取りする研究成果を挙げていた。従って、シグナル伝達機構が上流に作用するZD1839は魅力のある研究対象であった。

 正確には記憶していないが、AstraZeneca社の研究員との話し合いの中でZD1839(のちの“イレッサ”)に関する情報と化合物そのものを入手することができた。われわれの研究戦略は極めてシンプルであった。まずその化合物がわれわれの手持ちのがん細胞株に対しどの程度、或いはどのようなスペクトラムでの抗腫瘍効果を検討することから開始した。次にZD1839に対する耐性株を作成しようと考えた。耐性株を得ることができれば耐性機構を解析、同定することによって治療の標的が明らかになる。従って選択的に抑制する化合物の開発へとつながるはずである。

 最初の実験は当時、群馬大学より研修に来ていた成清一郎先生のテーマであった。われわれの研究室で持っていた19種のがん細胞株に対する“イレッサ”の抗腫瘍活性を検討したが大半のがん細胞株に対するIC50値はμMの2ケタであった(10〜100μM)。一般的に新しい殺細胞抗悪性腫瘍薬が“薬”として用いることができるのはIC50値が100nM未満(nMの2ケタ以下)のことが多い。よくメーカーの説明会に行くと血中濃度が10μM以上に上昇するからIC50値が10〜100μMでも十分抗腫瘍活性を示すというような説明がなされる。国内だけでなくグローバルの会議でも同様の説明がなされる。薬理学を十分理解していない臨床医は、“そうかな”と思ってしまう。このような状況は今まで何度も経験した。培養細胞は通常10%FCS(ウシ胎児血清)存在下で増殖する。この培養液に抗がん剤を溶解しても蛋白結合は殆どない。実際体内で蛋白結合があるため(多くの化合物の蛋白結合率は90〜99%)、totalの血中濃度が10μMであってもfree form(実際作用し得る化合物の誤差)は100〜1,000nMに過ぎない。つまり、この程度ではまず抗がん剤としては役に立たない。IC50値が10μM以上の化合物の場合、一般的には数グラム〜10グラム以上の薬効を投与しないと十分な血中濃度が得られないため薬としては失格になる。従ってZD1839のIC50値が10〜100μMは薬理学者にとっては失望を感じるものであった。