術後UFTは本当に効いているのか
 N・SAS試験が計画された1990年代は、すでに日本国内の死因の第1位はがんとなり、一部の抗がん剤は巨大な市場を形成していた。後で紹介するようにN・SAS試験を提案する厚生省(現、厚生労働省)の意図を突き詰めれば、「抗がん剤が本当に効くかどうか再度確認する」というものだった。製造販売していた製薬会社はもちろん、日常的に患者に処方していた医師に緊張が走ったことは言うまでもない。

 国の発案で抗がん剤を新たに評価するとなれば、国立がんセンターにその白羽の矢が立つことは自然な成り行きだ。そこで、内分泌腫瘍を専門とし、当時同センターの総長だった阿部薫を首班とする研究班が発足する。ある日、阿部に呼び出された渡辺は、乳がんについての試験のまとめ役となることを命じられる。阿部は同時に開始する結腸・直腸がんの試験(N・SAS-CC)では、同じセンターの島田安博(現、国立がん研究センター中央病院胃科医長)と吉田茂昭(現、青森県立中央病院長)に託した。

 まだ40歳を超えたばかりの渡辺や島田は、当時の抗がん剤の臨床評価に大きな不満を抱いていた。患者の登録方法も統計学的な評価も現在の基準から見れば満足の行くものではなかった。

 「もともとは阿部薫先生の一声で始まった試験だったが、強制されるというのではなく、真に科学的な抗がん剤の臨床試験の基礎を作るという思いだった」と渡辺は語る。

ソリブジン事件を教訓に
 そもそも、厚生省がなぜこのような事業を思い立ったのか。その背景には、薬事行政の信頼を揺るがしかねない事件が立て続けに起こっていたという当時事情があった。1つは1993年9月に起こった「ソリブジン事件」だ。ウイルス性皮膚疾患に使用する抗ウイルス剤ソリブジンと抗がん剤のフッ化ピリミジン系薬剤との併用による相互作用が原因で15人の患者が死亡した。

 当時、この事件は致死的な症状が出ているにもかかわらず、その情報が臨床現場になかなか浸透しなかった、副作用情報の伝達システムの欠陥という見方が一般的だったが、阿部の見方は違った。「当時の日本ではがんの告知が一般的ではなかった。自分ががんであり、抗がん剤を処方されていることを知らない患者も珍しくなく、告知なきがん医療がまかり通っていた。ソリブジン事件はこうした当時の日本のがん医療の欠陥に触れた」と語る。経口剤であったフッ化ピリミジン系薬剤は十分な説明をしなくても処方しやすく、結果的にこの点も事件を拡大する要因の1つとなった。

 厚生省にとっても対岸の火事ではなくなった。英国の一流科学誌ネーチャー誌は、94年9月8日発行号でソリブジン事件による厚生省の対応を厳しく批判する記事を掲載した。ネーチャー誌は、臨床試験中の問題点を発見できないような不十分な審査体制を温存してきたことの方が問題であると指摘、「製薬会社に製造停止の処分を下す前に厚生省のスタッフの給料を停止する方が理にかなっている」という皮肉を交えて、厚生省を批判した。

 座視しておれない事態となった厚生省は薬事審査システムの見直しに着手する。臨床試験の質の向上を目的にGCPの導入を計画する。同時に、それまで、巨大な市場を獲得していた薬剤の効果を科学的に再吟味する事業にも乗り出した。このとき同省が注目したのは骨粗鬆症の薬剤、高脂血症の薬剤、そして大鵬薬品工業が製造販売していた抗悪性腫瘍剤のUFTだった。

 1984年に発売されたUFTは、1990年代以降は大鵬薬品工業の主力商品。当時、日本国内で大きな売上を誇った薬剤の筆頭という存在だった。しかし、「本当に効いているのか」といぶかしむ声が専門医の間ではささやかれていた。疑念の源には治験と日常臨床における使用との乖離があった。転移再発後の患者に投与して、腫瘍縮小効果を指標に評価されていた薬剤が実際に臨床現場に出れば、術後補助化学療法として使用されていたが、術後に使用しての有効性は確認されていなかった。厚生省はここを問題視した。

 術後補助化学療法の場でUFTの有効性を検証せよという要請に、大鵬薬品工業は当初緊張したもようだ。無再発生存期間を主要評価項目とするとなれば、時間がかかる。しかし、阿部班の計画は2年とされていた。最初の2年は国が面倒を見るが、その後は大鵬薬品工業が主体とならざるを得ない。まして仮に結果がネガティブであれば、主要な製品の喪失につながる。最終的には非劣性が証明されたが、そこは同社にとってまさしく“トライアル”にほかならなかった。