梶谷氏の講演に感銘し、癌研行きを決意
――竹田総合病院の後、癌研病院に移られますね。どのような経緯ですか。

 毎日充実感はあるけれど、一方で「手術について体系的に勉強しないといけない」という気持ちも次第に強くなっていきました。胃がんの手術を行っても瞬く間に再発してくる。胃がんの手術でリンパ節郭清をどうしたらよいかなど、やればやるほど疑問が増えてきました。

 無手勝流にやって患者さんを助けることができるのか、毎晩自問自答していました。実技を総括するとか体系化する必要を痛感していましたが、どうすればそれが可能になるのか。

 一種の飢餓感が募ってきた矢先に、会津に癌研究会附属病院の梶谷鐶先生が来られて胃がんをテーマに講演されたのです。「釘付けになる」とはこのことで、自分が抱き続けていた疑問を解消できる直感がしました。それで癌研に行こうと決意しました。

――癌研病院ではすぐに乳がんの手術を手がけられた。

 いやいや、まずは消化器がんの手術のハーケン引きからです。1日3件のハーケン引きという日々でした。1970年、30歳になる頃に初めて乳がんの手術をさせてもらいましたが、術中に「霞、右だ、右に行くんだ」と怒鳴られるような手術でした。

 70年の乳がんの手術はいわゆるHalstedの手術。腫瘍サイズが1cmでも5cmでも、転移の有無に関係なく、Halsetdの手術でした。消化器の手術は病巣が深いので、臓器をよいしょと持ち上げて鋏で切るイメージですが、乳腺の手術はメスをスーッと動かして横に切る。そのメス捌きに感動を覚えました。

――あの講演ではHalsted手術の改良を「楽しかった」と回想されていましたね。

 楽しかったけれど、やはり必死だったと思います。癌研ではHalstedの手術について研修医が独自にマニュアルを作成していました。それを自分なりに咀嚼しているうちに、Pateyの手術、Auchincrossの手術などの改良版へ転進していきました。Pateyの手術は細かな改良が必要でした。この手術を行って学会で発表したら、大阪医科大学の先生が、「この手術では胸筋神経を半分か3分の1しか温存をしないのでいずれ大胸筋が萎縮します」と言ってくる。はたして、その通りになったので、その後はAuchincrossに至り胸筋神経を温存しました。そうして一息ついていたころ、欧米で登場したのが、乳房温存手術です。

――このときの乳腺外科はどのような状況だったのですか。

 以前は、消化器外科手術の片手間に行われることが普通でした。今ほど患者も多くなかったし、そもそも乳腺の手術はそんなに難度が高い手術と思われていませんでした。

 日本乳癌学会が20年前に発足した当時、最も重要な活動テーマが、「乳腺外科」の標榜を認めてもらおうというものでした。しかし、先輩の消化器外科医から「あんな運動止めろ」と言われました。標榜なんかされたら、自分たちが乳腺の手術ができなくなるというわけです。しかし様々な術式の改良が起こり、先鋭化したものになっていくにつれて兼務することが難しくなり、乳房温存手術が登場すると片手間では太刀打ちできないものになりました。

――乳腺外科の独立ですね。

 独立は独立ですが、でも一方で、乳腺専門外科に対して私自身が「これだけでいいのか」と悩みましたし、お腹が開けられない外科医でいいだろうか。しかし、とにかく患者さんが多いので、そんなこと言っていられないんです。何しろ、癌研の外来患者の半分が乳がん患者になったんです。

 外科医はこれでいいのかではなく、どうやって増え続ける患者をさばくかが大問題になってきた。この状況は現在でも続いています。1970年には癌研の手術件数は年間200件くらいだったものが、300件になり、1980年には400件になった。消化器の先生が片手間に行うのでは済まないので、1988年には病院の方針として消化器外科、呼吸器外科と乳腺外科とに分かれたわけです。

半信半疑で眺めた乳房温存手術
――乳房温存手術が導入されるのもそのころですね。

 米国では随分昔から温存手術が行われていて、それが世界の主流になりつつありました。時代の流れを察知した厚生省(現、厚生労働省)が、日本としての対応の必要性を感じて、1989年4月に「乳がんの乳房温存療法の検討」班を発足させました。米国で行われていることは知っていましたが、言ってしまえば、鼻でせせら笑っていました。

 確かに乳房切除の縮小化がはかられて、縮小化の行き着くところは「乳房温存」であることは確かですが、乳房切除から乳房温存への移行は大きな断層を形成していて、簡単に踏み込めるものではなかったのです。

 先立つ1986年7月に、米国で温存手術を手がけていたニューヨークのメモリアルホスピタルのアシカリ先生が癌研にきて温存手術を実演してくれたのです。アシカリ先生は「嫌だな、針の筵だろうな」と言いながら手術されたんですよ(笑)。左外上部分切除、腋窩リンパ節郭清です。私は術者の背後から見ていましたが、正直いって「これは何の手術なんだろう。これでがんが治るのか」という半信半疑の気持ちでした。今のような放射線照射も行いませんでした。

 厚生省が「乳房保存」の研究班をつくってくれと言ってきたのですが、保存ではなく、慈しむというニュアンスを入れたかったので、「温存」ということにして、研究班の名前にしました。これで温存という言葉が定着したわけです。

――研究班が日本の乳房温存療法の普及の橋頭堡になったわけですね。

 まあ、いろいろですけど。研究班には国立がんセンター(現、国立がん研究センター)も参加していましたが、「あれでは乳がんは治らない」と主張して症例は出さなかった。だったら参加しなければいいのに、「厚生省の研究班である以上、国立がんセンターが参加しないわけにはいかない」のですよ。この研究班は現在も続いていますが、しばらく時間があいて90年代半ばから温存手術の割合が増えてきて、2000年には50%くらいになりました。しばらくは50%程度でしたが、2007年には温存がずっと増えてきて60%を超えた。現在は60%強くらいです。

――温存を医療現場が取り入れることができたわけですね。

 患者の希望や社会の趨勢という側面もありますが、現場の感覚で表現すると第一の理由は「慣れ」です。症例をきちんと選べば、断端マイナスにすることは可能です。仮に完全なマイナスにならなくても放射線を照射すれば事足りるという気持ちです。いい意味のふてぶてしさが出てきたということでしょう。大阪成人病センターでは80%近くまでやっているし、90%くらいの施設もあります。

――将来は全国的に90%くらいになるのですか。

 それはありえません。やはり乳房内再発という大問題がありますから60%台で落ち着くと思います。欧米でもやはり60〜70%内外で飽和しています。乳がんは再発まで時間がかかるので、そうした手術の結果を反映して、術式を見直すプロセスはものすごくゆっくりしたものになります。

 温存の割合が進んで、時間の経過とともに再発が増えてくると、温存割合の向上にもブレーキがかかってくると思います。現在、乳房内再発率は年率0.6〜0.7%で0.5%以下にはならない。厳しさと放射線照射効果のバランスをどのように考えるかという問題ですし、施設による認識の違いもあるので確定的に言うことはできませんが、やはり60%台で今後も推移するのではないでしょうか。