第18回日本乳癌学会学術総会(6月24日〜25日)で順天堂医院乳腺センター長の霞富士雄氏が行った特別講演「乳癌治療の紆余曲折と将来」が話題を呼んでいる。日本で最も多くの乳がん手術を行った医師である霞氏が、乳がん診療の中心は、外科から腫瘍内科へ移るという趣旨の発言をしたためだ。乳がん手術の潮流は変わりつつあるのか。さっそく霞氏に話を聞くことにした。
(聞き手:小崎丈太郎=本誌編集長)


霞 富士雄(かすみ・ふじお)氏
1940年10月横浜に生まれる。66年東京大学医学部を卒業し、67年10月より会津若松市竹田総合病院外科に勤務。70年から癌研究会附属病院外科勤務。63年同院乳腺外科部長。96年に第6回日本乳癌学会会長。05年10月に癌研有明病院を定年退職し、同11月に順天堂大学医学部附属順天堂医院・乳腺センター長に就任し、現在に至る。89年4月に発足した「乳がんの乳房温存療法の検討」班の班長を2期務め、乳房温存療法を日本に広める先導的な役割を果たした。(写真:清水 真帆呂)

――日本乳癌学会学術総会で先生が行った特別講演が評判ですね。外科医としてのご経験は、そのまま日本の乳がん外科治療の歴史であったことが改めてよくわかりました。

 自分の履歴を話しても若い人は白けるのではないかと心配したのですが、一方、心の中では40年にわたって外科医として生きてきて、こういうことがあったということをわかってもらいたいという気持ちが強くありました。大きな学会で講演するのもこれが最後だという感傷もあって、お話しさせてもらいました。

――1966年に東京大学を卒業されて、福島県の竹田総合病院に研修医として赴任することで医師としてスタートされたわけです。驚いたことにその時点では、医師免許を持っておられなかったとか。

 当時東大紛争が起こっていて、“国試拒否”、“大学医局への入局拒否”をクラスで決議したものですから、そういうことになりました。学外の学生の東大病院での研修を認めるべきだという主張に対して、大学側が反対したんです。一方で外の病院に勤務されていた先輩医師の中にも「免許がなくても立派な医師に育ててやる」と言ってくれた方々がいたこともあって、皆な医師免許がないのに、飛び出しました。それで現場に立ったわけですから立派な医師法違反ですね。

 でもね、医療現場に行くと自分の医師としての未熟さに直面するわけです。なにしろ、行った翌日から30数床の病棟の責任者にされたわけですから。「浣腸してくれ」という患者の訴えにおろおろしていると、看護師さんたちがアドバイスしてくれる。それも「こうやりなさい」ではなく、「こういうときはこうすればいいんだと、先生はいつもおっしゃっていますよね」という風に私に教えてくれる(笑)。

――患者の前で若い先生の面子を潰さないように配慮しているわけですね。

 その点も含めて臨床経験の全くの未熟さですね。包帯の巻き方からして見様見真似で学ぶくらいですから。大きな声では言えないけど、麻酔もすごいベテランの男性看護師さんから教わりました。国試拒否闘争自体、他の大学から来た同年代の医師たちからは全く理解されませんでした。「医師免許がなくて何ができるの。どうしてそんな馬鹿なことしてるの」という感じでした。術者として手術を行っても、あくまで助手としか記録されないし、月給も当然差をつけられました。だから医師免許は取りました。個人個人でタイミングは違いますが、大学に頭を下げて戻った同級生も少なくありません。脳外科や眼科のような専門性の高い分野は大学にいないときちんと学べないことも多いし、やはり多くの指導医がいない虚しさというのもあったと思いますね。

 とはいえ、若いころの体制の理不尽さへの怒りというのを軽く見るべきではないですね。方法は確かに未熟だったけれど、そういう矛盾や不条理に対抗して取った行動自体は、後の仕事や人生における起爆剤になりますからね。

――竹田総合病院での生活はどのようなものだったのですか。

 消化器から何から何でも手術させてもらいました。一般病院ですから、本当に何でもやらざるを得ない。仕事は大変でしたが、自分が医師として日々成長しているという喜びが勝っていたので、全然苦にならなかった。現在では「外科は3K職場」だと言われているけど、そんな気持ちは微塵もなく、勤務を終えると宿舎までの夜道を充実感いっぱいで、よく流行歌なんかを口ずさみながら帰りました。藤島桓夫の「お月さん今晩は」という歌です。まさに無我夢中の2年半でしたね。