繰り返す余震と天候不順に伴う土砂災害により、阿蘇地域における急性期の医療支援は困難を極めた――。そんな阿蘇地域で保健所や地元医療機関などと共に阿蘇地区全体を統括する災害医療コーディネート本部の立ち上げに尽力した労働者健康安全機構横浜労災病院救命救急センター救急災害医療部長の中森知毅氏に当時の状況を聞いた。


阿蘇地区全体を統括する「阿蘇地域災害保健医療復興連絡会議」を立ち上げた労働者健康安全機構横浜労災病院救命救急センター救急災害医療部長の中森知毅氏

 私は4月16日の本震後に災害派遣医療チームDMAT)事務局からの出動要請を受け、翌日の4月18日に、DMAT第3次隊として熊本に向かった。熊本空港は地震の影響で機能をしていなかったため、まずは福岡空港へ行き、そこからDMAT本部が手配したバス車でDMAT参集拠点本部、熊本赤十字病院に向かった。

 事前に立川のDMAT本部から依頼されていた任務は熊本赤十字病院でのDMAT活動拠点本部長という役割だった。だが、本震が起きた16日以降、阿蘇地区でも甚大な被害が起きていることが報告されており、熊本赤十字病院に到着した18日には急遽、阿蘇地区の本部長として拠点を設けた阿蘇医療センターに向かうことが決まった。

各支援団体が各地区ごとに独自で医療支援を実施
 これを受け、4月19日に私は熊本赤十字病院から阿蘇医療センターへ移動した。阿蘇に到着後、先に現地に入っていた近森病院救急科科長の井原則之氏と福島県立医科大学附属病院の塚田泰彦氏から申し送りを受けたが、いつもは落ち着いた風貌の先生方が見たこともないほど憔悴していた。

 引き継ぎを受け、私は阿蘇地区での本部長の立場を引き継ぐことになった。阿蘇地区は広い。だが、この地域全体の被害状況を急いで把握しなければならなかった。まずは井原、塚田両氏が始めていた避難所や診療所、病院の被災状況の確認を行った。安全な立地にあるか、倒壊の恐れはないか、ライフラインが確保されているか、避難者がどのくらい集まっているかなどのアセスメントをしたのだ。この時点で、立野地区には国境なき医師団、長陽地区には日本赤十字社TMAT、久木野には日本医師会災害医療チームJMAT)、阿蘇保健所のある白水にJMATが支援に入り、それぞれの地区で活動をしていることが分かった。

阿蘇医療センターにおけるDMAT活動拠点本部の様子(提供:中森氏)

 超急性期から急性期には、ニーズに合わせて地区ごとに異なる支援があって然るべきだが、いずれは被災地域の医療機関や保健機関の手に戻し、現地の力で医療や保健を担えるようにしなければならない。そのためには、地区ごとに支援の方針が異ならないようにする必要がある。また医療は比較的速やかに復旧する気配を見せていたが、避難所における保健、衛生活動については月単位での支援が必要になると予測された。

 これまでの経験から、外部から必要とされる支援を効率よく受け、必要な支援が途絶えたり、地域による支援の濃淡が生じないようにするには調整機関が必要だと私は考えた。通常であれば自治体の中にそのような調整機関が置かれるが、阿蘇地域は広く、阿蘇保健所が管轄するエリアは阿蘇市、南阿蘇村を含め7市町村に及び、各地方自治体でカバーできる範囲を超えていたからだ。

 阿蘇地域での支援体制作りを進める際に脳裏に浮かんでいたのは、私が初めて災害支援に参加した2007年7月の新潟県中越沖地震の支援の様子であった。新潟県柏崎市では、地元の保健所長と医師会長が、外部から支援に入ったDMATのリーダーや自衛隊や消防の代表者とテーブルを囲み、朝と夕に情報を共有。日々、問題点を明らかにして次の時間の支援の内容を決めていた。市町村よりも広い範囲をカバーするには、あのような会議体をできるだけ早く作らなければと思ったのだ。

保健所長を筆頭とした本部立ち上げへ
 そして、この会議体のトップは支援者ではなく、阿蘇保健所の保健所長でなければならない。保健所長を中心とした阿蘇地区全体の医療と保健の復興を統括する会議体を立ち上げるため、保健所、阿蘇医療センターの院長、阿蘇地域の医師会、歯科医師会、薬剤師会、消防、自衛隊などに「会議体の事務局機能はDMATの活動拠点本部が行います。なので、まずは集まって調整会議を始めましょう」と声掛けをした。「阿蘇は1つ。全ては被災者のため。地元の医療、保健の手に戻すために」をポリシーとして会議体の運営を始めた。

 その頃、すでに一部の地域では意思統一を図りながら活動を始めようと動いていたときでもあった。そのため、必死で超急性期の対応をしてきた地元の保健所や保健師、医療機関の人々からすれば、ようやく避難所での取り組みを始めたところで、突然DMATが「復興の窓口となる会議体をつくる」と言い出したのは迷惑だったかもしれないと、今でも自分自身の判断が正しかったのか、そしてそれを言い出したタイミングが適切だったのかについては不安に思っている。

阿蘇地域災害保健医療復興連絡会議の様子(提供:中森氏)

 だが、全体を統括する仕組みのないところに、被災地外から大量の医療支援が入る場合、地域全体を統括する場がなければ大きな混乱が生じ、「医療支援が地元の医療や保健機関にとっての災害」になりかねないと当時の私は危惧していた。

 医療や支援の押しつけにならないように極力注意を払い、被災地の医療従事者の意見を第一に進めたつもりだが、言葉の端々から迷惑に感じられているかもしれないと感じられることもあった。今思えば反省すべき点はあったと思う。

 しかし、最終的には現地の医療従事者の方々から全面的な協力を得て、4月20日に阿蘇地域災害保健医療復興連絡会議(Aso Disaster Recovery Organization ADRO)を立ち上げ、翌21日には第1回会議を阿蘇医療センターで開催した。

 以降、ADROでは朝と夕に会議を行い、保健師、医師会、歯科医師会、薬剤師会、看護師、保健師、消防、自衛隊、日赤、DMATなどの代表者がそれぞれの立場で参加し、問題点、課題、今後の見通しなどを話し合った。そこで、感染症予防や深部静脈血栓症(DVT)予防に取り組むこと、地元の医療機関は1週間分の災害時処方箋を書くのに対して、被災者と地元の医療機関との関係を壊さないように支援者が災害時処方箋を書くときには3日間を超えないように皆で申し合わせること、などの方針を決めた。