震災直後、多くの医療者が被災者救護とその後の復興支援に当たる中、製薬企業MRたちはどんな動きをしたのだろうか。物資と人手に加え、様々な“情報”を提供するため奔走したMRたちの働きを、ノバルティス ファーマのMRを例に紹介する。


「スイス本社をはじめ、世界中のグループ会社からたくさんの支援が届き、被災地に送らせてもらった」と話すノバルティス ファーマ取締役の永田修氏。

 「地震、津波、原発事故と、次々に問題が巻き起こる中、製薬企業として、何ができるのか。どう動くべきか、その判断が非常に難しかった。連絡が取れない状況下、社員一人ひとりが、それぞれ自分で考えて動いてくれた」。ノバルティス ファーマ株式会社(東京都港区)取締役でコンプライアンス本部長の永田修氏は、同社の震災時とその後の対応を振り返り、そう話す。

震災当日のMRたち
 3月11日の地震直後、東京都港区にあるノバルティス ファーマの本社の地下の一室に、永田氏をリーダーとする震災対応チームが設置された。同委員会は当初、各事業所の被害状況の確認と、社員とその家族の安否確認に追われた。

 事業所については、郡山営業所の建物の一部が損壊した以外は、大きな被害はなく「製薬企業としての使命である薬の供給が、滞ることはなかった」と永田氏。同社では、大災害などに備え、免疫抑制剤や抗がん剤など、服薬の中断によって患者に深刻な影響が出る薬12種類については、他の薬よりも備蓄量を多くするなどして、万全の供給体制を整えてきた。もっとも今回は、同社の生産拠点は兵庫県篠山市にあるため、震災による生産ラインのストップはなく、備蓄に手を付けることなく、通常通りの供給ができたという。

 一方、社員の安否確認は簡単ではなかった。特に心配されたのは津波の被害が大きかった気仙沼市や石巻市など沿岸地域を担当するMRたちだ。東北6県を預かる東北営業部長の日光博久氏と営業推進グループマネージャーの大塩芳郎氏は、「携帯電話がつながらないMRが数人いて、非常に心配した」と話す。

 気仙沼市と南三陸町を担当する橋場貴行氏は、東北営業部が最後まで安否確認が取れなかった一人だ。地震のときは、気仙沼市役所近くの医療機関にいた。「地震の後すぐに、市役所の駐車場に止めていた車を出そうとしたところ停電で出せず、市役所職員に誘導されて避難した」と話す。

 町の中心部まで津波が押し寄せ、「営業車が他の車とともに津波に流されていくのが見えた」(橋場氏)。震災直後に通じた携帯電話は、その後不通となり連絡が取れなくなった。市役所に避難し、停電のため寒くて明かりもない中、夜を過ごした。

 橋場氏に連絡が取れたのは、14日の朝だった。電話会社の中継車が巡回に来て、やっと電波が通じたのだ。他社のMRとタクシーに同乗して、やっとの思いで仙台事業所(青葉区)まで戻ってきた。家族にも会い、一段落すると「いつもお世話になっている医療機関の先生やスタッフの方々がどうされているかが気掛かりで仕方なかった」と橋場氏。翌週には気仙沼市に戻り、得意先の医療機関を回り始めた。

 MR歴3年目の山本純也氏は、仙台市の北西にある仙塩利府病院(宮城県利府町)で面会中だった。「大きく揺れたが、まさかこんなに被害が出ているとは思っていなかった」と山本氏。病院を後にして、仙台事業所に戻ろうとしたところ、道路が大渋滞だったため、あきらめて同病院に戻り、夕食の配膳を手伝った。エレベーターが停止して配食に人手が必要だったからだ。

 下膳の手伝いも終えて一段落し、夜11時ごろ、渋滞が緩和されていたため、病院を後にして、仙台市内の自宅へ向かった。どこも明かりが消えて信号も止まっていたという。

被害状況の確認と手伝いに奔走
 3月11日を境に被災地を担当するMRたちの仕事は一変した。

 「立ち入り禁止になっているエリアもあり、行ける医療機関から一軒ずつ訪問して安否と被害状況を確認することから始めた」と橋場氏。被害が大きかった医療機関の医師やスタッフらは、「よく来てくれた」と涙を流して喜んでくれたという。「仕事上の関係を超えて、人と人とのつながりを感じた瞬間」(橋場氏)だった。

 医師の多くは、被災しながらも何らかの形で診療を続けていた。建物の1階が浸水して2階で診療を続ける医師や、被災者として避難所で生活しながら、そこで診察する医師もいた。どこも患者で溢れていた。