人口1万7666人に対して死者・行方不明者が1090人(4月14日時点)に上った宮城県南三陸町は、今回の震災で最も打撃を受けた自治体の一つだ。避難者は一時、町の人口の半数を超える約1万人に達した。

 同町は1960年のチリ地震でも津波の被害を受けており、その教訓を忘れないよう、町のあちこちには津波の水位を示した看板が立てられていた。96年には庁舎別館として防災対策庁舎も開設し、地震対策に万全を期していた。ところが、大津波はその想定をはるかに超え、カキやホタテなどの養殖漁業が盛んだった町を壊滅状態に追い込んだ。

 国土地理院の調べでは浸水範囲は町全体の6%。他の被災地と比べ突出しているわけではない。しかし、市街地に絞ると、その割合は48%になり、被災した全市区町村の中で2番目に高い。町土の約70%が山林で、市街地が沿岸に集中していたことが災いした。

公立志津川病院の入り口付近。院内は、ほとんど原形をとどめていない。

医療体制の再構築には3年
 医療機能も巨大津波に飲みこまれた。基幹病院の公立志津川病院(126床、常勤医5人)は建物の4階まで津波に襲われ、入院・外来の病院機能が完全にストップ。入院患者や職員約300人のうち約70人が死亡・行方不明となり、病院の設備は原形をとどめないほど破壊された。町内の介護施設もほとんどが倒壊したため、生き残った入院患者は全員、内陸の病院に転院させた。

 6カ所あった診療所も、医師は全員無事だったものの建物が流され、跡形もなくなった。どの診療所も入り口の階段とスロープがわずかに形跡を残す程度。町内の医療機関は、全てなくなった。

 「震災は多くの死者や行方不明者、町外への避難者を出し、町の人口は激減している。医療提供体制の再生は、今後の町づくりに大きく左右されるが、安定した体制に戻すには3年ほどかかるだろう」。志津川病院の内科部長で、震災後に宮城県から災害医療コーディネーターを委嘱された西澤匡史氏はこう説明する。

宮城県災害医療コーディネーターの西澤匡史氏は、「復興には3年くらいかかるだろう」と話す。

 震災で人口が大幅に減れば、おのずと町全体の診療機能の縮小が必要になる。町の将来像が不明確な今は、医療提供体制を復興するための青写真も描けない。

統括本部で情報を一元管理
 しかし、震災後も医療ニーズは増え続けている。高齢化率が高く、要医療・要介護の高齢者が多いため、慢性疾患を抱えた避難者は増加する一方だ。

 これに対応しようと、DMATやJMAT、大学や学会などが多くの医療従事者を南三陸町に派遣した。被災から約1カ月後の時点では、150人ほどの医療従事者が現地で活動する。これらのチームを束ねているのが西澤氏。医療支援チームの調整役を担っている。

 毎朝、全チームのリーダーが参加するミーティングを開き、各避難所の状況を一元管理。どこにどんな医療が足りないのかを把握し、各避難所に派遣するチームを割り振ったり、巡回診療の担当などを決める。

 避難所の数は4月14日時点で44カ所。その中の一つ、総合体育館「ベイサイドアリーナ」は1500人近くの避難者を収容する大規模避難所だ。1階ホールには診療ブースがあり、ついたてやカーテンで仕切った即席の診察室が複数設置された。派遣された医療支援チームが毎日100人前後の患者を診察する。

避難所となった「ベイサイドアリーナ」では医薬品が一括保管され、各避難所に配布されている。

 現在、避難所で懸念されているのが感染症だ。ベイサイドアリーナでは4月中旬、ノロウイルスによる感染性胃腸炎が流行し始めた。これを受けて保健所は、食事の紙皿などは1回使ったら廃棄すること、食事前とトイレ後のアルコールでの手指消毒を徹底することなどを呼び掛けた。ただ、医療支援チームのある医師は、「衛生面を保つのは本来、行政や保健所の役割だが、十分な働きをしているとは思えない」と不満を漏らす。

 また、診療ブースの脇には、宮城県薬剤師会などが医薬品の在庫を一元管理するスペースを常設。ベイサイドアリーナ以外の避難所の薬剤の過不足状況を把握し、補充している。当初は不足していた薬剤も、今では在庫は十分あるという。