各地域の被害は地形や人口規模などの違いで差が出た。医療提供体制の復旧状況も、基幹病院の被災度合いなどで異なる。復興までの道のりはどこも険しいが、現場では多くの医師が日々奮闘する。


石巻赤十字病院は、4月7日夜に発生した余震の際、周辺地域から集まった避難者を収容するため、玄関前にテントを立てた。

 約16万人の人口を抱え、東北地方有数の工業港を有する宮城県石巻市。海に向かって低地が広がる同市に押し寄せた大津波は、一瞬のうちに市街地の半分を飲み込み、市内約6万戸の家屋のうちほぼ半数が全壊した。

新築移転で難逃れた日赤
 2次、3次救急を担い、災害拠点病院として石巻市周辺の前線基地となったのが石巻赤十字病院(402床)だ。同病院は2006年5月、海に近い市街地から内陸の蛇田地区に移転し、津波の被害から逃れた。震災直後、自家発電に切り替わった電気は、東北電力による重点的な作業で数日後に復旧。水道も給水車による給水などを受け、早々に回復した。

 市内では、2次救急医療機関だった石巻市立病院(206床)が津波で甚大な被害を受け、診療不能に陥った。市内の診療所も、約半数が診療休止に追い込まれた。津波の被害がなく、電気や水道の途絶からも免れた石巻赤十字病院は、必然的に災害医療の前線基地の役割を担うことになった。

同病院内の災害対策本部には災害医療の専門家が参集。左から、兵庫県災害医療センターの中山伸一氏、石巻赤十字病院の石井正氏、山形県立中央病院の森野一真氏、国立病院機構災害医療センターの小井土雄一氏、熊本赤十字病院の井清司氏。

 同病院では3月11日の震災直後、すぐに災害医療対策本部を立ち上げ、トリアージエリアを設置した。ただし、震災当日の救急患者数は約100人(図1)。救急車の多くが津波に流され、消防も被害を受けたため搬送手段が失われ、患者は病院までたどり着けなかったのだ。しかし翌日から、被災地で孤立していた人々が続々と救助され、救急車やヘリコプターで運び込まれて患者が急増。震災2日後の救急患者数は1200人を超えた。重症者の多くが長時間水に漬かったことによる低体温症。院内は、押し寄せる患者と治療が終わっても帰るところのない被災者であふれかえった。

図1 震災後の石巻赤十字病院の患者数の推移
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宮城県の災害医療コーディネーターを務める石巻赤十字病院の石井正氏。“前線基地”となった同病院で指揮を執る。

避難所のアセスメントを開始
 石巻市周辺は元々、宮城県沖地震が将来起きた場合、甚大な被害を受けると予想されていた。震災に備え、10年1月には県や市、基幹病院、県医師会や郡市医師会、自衛隊、警察など災害医療の実務担当者によるネットワーク協議会が発足していた。震災1カ月前の11年2月には宮城県が、石巻赤十字病院の外科医であり医療社会事業部長も務める石井正氏に県の災害医療コーディネーターを委嘱。災害発生時に、石巻市など沿岸部の医療提供体制をつくるための調整役を任せていた。石井氏は、「災害直前の委嘱だったが、石巻赤十字病院を拠点に皆で対応する下地は整っていた」と振り返る。

 石井氏は実際、震災直後から関連団体や全国から集まった医療支援チームと協働し、東松島市と女川町を含む石巻市周辺の医療提供体制の立て直しに奔走。全国から同病院に駆け付けた災害医療の専門家や東北大病院長の里見進氏(Vol.2参照)などの協力を得ながら、様々な策を講じてきた。