現地の医療者や支援チームは、物資不足に悩まされながら手探りで診療を行った。医療提供体制の再構築にはまだかなりの時間を要する。各地から派遣される医療支援チームの役割は大きい。


 おびただしい数の遺体が収容される中、早急な治療を要する通称“赤タグ”“黄タグ”の患者は極端に少なかった─。

 今回の大震災では、大津波による溺死が9割以上を占め、重症患者の救援を目的とする初期の医療支援チームの役割は限られた。一方で被災者の亜急性期・慢性期の医療ニーズは予想外に大きく、人手や物資、交通手段の不足により、その対応は困難を極めた。救援に入った医療者も、手探りの状態で支援活動を展開せざるを得なかった。

 今回の地震は、1000年に1度といわれる想定外の大津波を引き起こし、災害医療の専門家たちも手をこまぬいたという点で、医療界にも大きな教訓を残した。

医療ニーズは慢性期中心
 地震による被害を改めて振り返ってみよう。

 震災全体の人的被害は、死者1万4358人、行方不明者1万1889人。負傷者は5314人(警察庁調べ、4月25日時点)。阪神・淡路大震災では死者6434人に対して負傷者が4万3792人だったことを考えると、死者・行方不明者の多さが際立つ。

 震災直後の医療ニーズは、津波から救助された人の手当てや肺炎の治療、水にぬれたまま屋外や避難所で過ごさざるを得なかったことによる低体温症の治療が中心だった。ただ、こうした患者はさほど多く発生せず、震災直後に仙台で救援活動を行った東京医科歯科大・救急災害医学講座准教授の白石淳氏は、「死体ばかり積み上がり、助けられる傷病者はほとんどいなかった」と語る。

 その後、薬を流されて服薬が中断し、症状が悪化する人たちが続出。寒さ、食料不足による栄養状態の悪化、避難生活によるストレスなどで体調を崩す人たちが中心となった。また、衛生状態の悪化によるウイルス性腸炎、粉塵による上気道炎なども発生。現地の医療ニーズは、こうしたコモンディジーズの診療や慢性期疾患の管理がほとんどを占めたというのが、医療面の特徴だった。

被害状況には地域差
 また今回の震災では被災エリアが広範に及んだことが、被災地の医療支援を困難にした。被災者が各所に避難し、支援の手が入らない無数の“孤立地帯”が生まれた。どの地域にどれだけの被災者が集まっているのか行政も把握できず、救援に至るまで日数を要した。

 その後はこうした地域を巡回診療するため、医療支援には非常に多くのマンパワーが必要になった。例えば、本誌記者は宮城県気仙沼市で被災者の訪問診療に同行したが、半日かけて2軒の被災者宅しか訪問できなかった。被災者の多くは車を失い通院手段がなく、病院や診療所といった医療インフラも打撃を受け診療を休止したため、医療支援チームが巡回する以外に医療提供の術がなくなってしまったのである。

 さらに、町の大きさや地形などによって、家屋の被害や医療機能の破壊度合いは異なっていた。

 例えば、宮城県南三陸町。ここは震災前、人口1万7382人、世帯数5363戸の町だった。津波によって3877戸(全世帯の72%)の住居が全壊し、半壊した住居数はいまだ不明。大半の住民が避難所など自宅以外での生活を強いられている。また、医療機関も全て壊滅し、4月25日時点でもわずか2カ所の仮設診療所で診療ができているのみだ。ただ、町全体が狭く、医療の提供は集中して行えている。

 一方、同県石巻市は、基幹病院である石巻赤十字病院が被害を免れ、一部の診療所も早期に診療を再開したが、被災地域が広範にわたり、ライフラインの復旧も遅れている。避難所も散らばっており、避難者も一時11万人に上るなど多数いた。そのため、医療を必要とする人も広範囲に存在し、南三陸町のような集中的な医療の提供ができず、依然手厚い医療支援を必要としている。

 こうした地域によって異なる医療支援の実情が県などにうまく伝わらず、「現地では医療が足りている」などの情報が流布し、県医師会や行政による医療チームの派遣にも少なからぬ混乱が生じた。

鉄筋の建物以外は全て瓦礫と化した宮城県南三陸町。写真は同町の公立志津川病院。