岩手県大槌町は釜石市と隣接し、同市と同じ釜石医療圏に属する。沿岸部に町が発展していた大槌町は津波で大打撃を受け、人口約1万5000人に対して死者・行方不明者は1700人余りに上った。

 大槌町の沿岸部で道又内科小児科医院を運営していた道又衛(みちまたまもる)氏も自宅兼用の診療所を流され、避難所生活を余儀なくされた。しかし、5月早々には高台に仮設診療所をオープン。町の医療サービスの充実に尽力している。地震発生時の被災状況、避難所におけるこれまでの医療提供体制の様子、そして大槌町の医療の復旧状況を語ってもらった。
(まとめ:豊川琢=日経メディカル)


道又内科小児科医院の道又衛氏。大槌港から数百mのところにあった自宅兼診療所が津波に流された。

 私は大槌港から数百mしか離れていない土地で、2階に住居を構える診療所を開いていました。古い建物でしたが、これまで津波の被害を受けたことがなかったので、今回も大丈夫だろうと思って避難しませんでした。ところが、これが間違った判断でした。

 地震からしばらくすると津波が押し寄せ、あっという間に1階部分の診療所は浸水してしまいました。妻たちと2階の住居に避難したのですが、水位はどんどん上がるばかり。ついには2階の天井から10cmのところまで水が達し、顔だけが水面から上に出ている状態になってしまいました。フローターの役割を果たした木製のベッドにつかまって何とか浮いていることができました。知り合いには、私はもう死んでしまったと思われていたほどです。

大槌町の中心部。町全体が崩壊した

医師の充足を当たり前と感じ始めた被災者
 救出されたのは津波襲来の翌日でした。弓道場だった避難所に逃れると、同じく診療所と自宅が全壊した植田医院の植田俊郎先生が避難者の診療に当たっていました。隣のグラウンドは自衛隊の基地になっていて、救出された人たちが多く運ばれてきたため、植田先生がトリアージをしていたのです。植田先生の診療所も自宅兼用でしたが、往診鞄など医療用具を持てるだけ持って上の階に避難し、それを避難所に持参して診療をしていました。

 私は植田先生と相談し、さらに高台にあった身体障害者施設に常駐して具合の悪くなった避難者の診療に当たりました。元々が福祉施設なので点滴などのちょっとした薬剤が常備されており、脱水症状や高血圧、発熱などの患者に対応できたのは不幸中の幸いだったと思います。岩手県立大槌病院(許可病床数121床)の岩田千尋院長がこうした取り組みを人づてで聞き、同病院の入院患者数人の受け入れを依頼してきました。大槌病院は2階部分まで浸水し、機能停止に追い込まれていたのです。

 ほどなくすると、全国から医療支援チームが続々と現地入りし、避難所で診療を始めました。釜石医師会に災害対策本部が設置され、釜石ファミリークリニック院長の寺田尚弘先生が本部長に就任。各チームをどこの避難所に派遣するか調整に当たったため、効率的に医療支援ができていたと思います。支援チームの撤退の調整も寺田先生が行い、混乱が起きませんでした。こうした体制を整えていた被災地は、それほどなかったのではないでしょうか。(関連記事:2011.6.17「『支援』卒業し、在宅を核に自力復興へ向かう釜石」

 ただ、時間の経過と共に、医療支援による“弊害”も徐々に見えてきました。元々が開業医、勤務医合わせて医師は10人もいなかった大槌町に、多いときには20〜30人の医師が支援に入り手厚い医療が提供されました。その結果、住民たちはその状態が普通であると思い込み始めてきました。