3月11日に発生した東日本大震災から2カ月が経った今も、被災地では12万人以上が避難生活を強いられている。沿岸部の医療機関の被害は甚大で、地域医療の復興には長い時間がかかる見込みだ。そんななか自治医科大学同窓会では、卒業生に呼びかけて約100人の志望者を集め、半年間にわたり医療チームを派遣し続ける「自治医科大学医学部同窓会東日本大震災支援プロジェクト」を発足させた。

 高知大学家庭医療学講座教授の阿波谷敏英氏(自治医大13期卒業)は、4月2〜9日の1週間、このプロジェクトから被災地に派遣された医師チームでコーディネーター役を務めた。
(まとめ:斉藤ゆかり=日経メディカル オンライン)


 地震発生当日、私は講演のため鹿児島にいました。講演直前に地震の知らせを受けましたが、詳しい状況を知ったのは翌朝のことでした。帰宅して、テレビやインターネットで情報収集をしていたところ、自治医大教授の尾身茂先生から卒業生に向けて、現地への支援を呼びかけるメールが届きました。

 尾身先生からの呼びかけに応じた自治医大卒業生は、私を含め200人近くに上りましたが、仕事の調整がつかない人もあり、最終的には100人ほどが参加することになりました。こうして自治医大卒業生による支援プロジェクトが発足したのです。

 このプロジェクトでは3つの原則を掲げています。1つ目は長期的な支援をすること。5月初旬までは1チーム6〜7人を、それ以降は3〜4人程度を、週替わりで現地に送ることで、半年間継続して支援を行う形をとっています。2つ目は地域全体を支援すること。「地域医療に従事する人材を育てる大学」の出身者として、地域の医療や介護や福祉の方々と連携して診療活動を行います。そして3つ目は、基本的なことですが、「自立した支援」です。被災地の人に迷惑をかけないよう、必要な物資は自分たちで賄います。

 私は、4月2〜9日の1週間、気仙沼港から20キロメートルほど内陸にある藤沢町民病院(岩手県)と、そこからさらに30キロほど南にある登米市立津山診療所(宮城県)を拠点に活動しました。

 派遣された7人の医師チームのうち私以外の6人は診療活動に従事し、私は6人の活動場所などを調整するコーディネーター役でした。この役割分担は、プロジェクト本部である同窓会で、各メンバーを知る人の意見を基に決めています。支援先の医療機関は、その直前に派遣されたグループのコーディネーターが案を出して決めていました。

 藤沢町民病院は、内陸側にあったことが幸いしたのか、建物の損害はありませんでした。私が訪れたときには、水、ガス、電気のいずれも使用できましたが、震災直後は停電が続き、非常用電源を使っていたそうです。発電機に必要な重油の確保には苦労したとのことでした。一番困ったのは、ガソリンの不足で、職員の通勤や、患者さんの通院に大きな支障が出たそうです。

 登米市立津山診療所も建物は無事で、水と電気は使えましたが、ボイラーの故障で暖房がきかず、お湯も出ませんでした。震災の影響で修理用部品が入手できないとのことでした。

 登米市立米谷病院にもチームの医師を派遣しましたが、ここでは震災の影響でエレベータが使えず、歩けない方を入院させるのが大変だったそうです。水と電気は使えましたが、ボイラーが壊れたため暖房やお湯が使えず、患者さんが暖を取るための毛布が多量に置いてありました。

 沿岸の南三陸町にはベイサイドアリーナという大規模な避難所があり、当時1460人が避難していました。近くにある公立志津川病院の西澤匡史先生と菅野武先生(ともに自治医大卒業生)が診療に当たっていました。公立志津川病院は津波で5階建ての4階までを破壊されて機能を失っていたのです。ベイサイドアリーナには、お2人と同年代で顔見知りの先生を派遣することにしました。

 西澤先生は現地の医療統括本部において外部から来た医療支援チームの差配にも当たっていましたが、震災直後は1人でベイサイドアリーナの避難者すべてを担当し、1日300〜400人を診察していたそうです。