塩釜市の西(つまり内陸寄り)20kmあまりの位置にある宮城県立こども病院の泌尿器科部長、坂井清英氏が被災後、友人らに送っている一連の状況報告のメールを、坂井氏の了解を得て掲載する。今回掲載するのは、3月19日(土)に送信された内容で、「今は嵐の前の静けさ」「被災地の中核病院はダウン寸前」の続報である。

 やや内陸寄りにあることから、全壊や半壊といった大きな被害は免れた宮城県立こども病院だが、被災後は、医療資源、通信手段、燃料、食糧の確保に苦しんでいる。震災から7日目でようやく固定電話が復旧して医療機関同士の連絡が可能になった。また各方面からの援助の手も届き始めたが、医療者や職員らが個人のネットワークを駆使して情報を発信し、ようやく取り付けたものがほとんどである。

 掲載に当たり、元の文章の主旨を変えない範囲で編集を加えた。



 平常時には何も考えずに生活したり仕事をしてきましたが、社会の営みの基盤の部分は、きわめて複雑な人々の役割が絡みあってハンモックのように支えられていることを実感しました。また、苦境に陥ったとき、平常ではなくなったときでも人々の強さに驚きました。その陰で残念ながら人間の嫌な部分もところどころ見えてしまいます。

3月19日8時17分のメールから
 E君、あの混乱の中、よくぞ仙台まで息子さんを迎えに来られましたね。それだけでも驚きです。息子さん無事で良かった。沿岸より離れていたのが幸いでした。30年前の宮城県沖地震(1978年宮城県沖地震)の時は、僕の父親も車で仙台へ向かったそうですが、交通事情が許さず、群馬県から引き返したそうです。親は同じことを考えますね。

 現在の仙台市内は電気、水道に関してはかなり復旧が進んできて連休明けにはかなりの範囲で落ち着くと思います。ガスは全然来ません。全国から数多くのガスの専門の作業員の方々が仙台へ集結し作業を開始しました。しかし、これはあくまで市街地の話です。被災地域にはいまだ足を踏み入れるのさえ危険なところがあり、薪で炊飯し暖を取っているところもありますので、贅沢は言えません。

 お風呂には入れないので、ポットでお湯を沸かしてバケツに汲み水で適温にしてから行水をしています。電気が来ない時は、寒い中、気合いを入れて冷水でシャワーを浴びました。気合いさえあれば簡単には風邪は引きません。自分が試して大丈夫だったので、皆にけしかけた結果、病院スタッフの何人かも同様に冷水シャワーやってました。

 病院の若い女性職員でも、街の中を歩く人達でも、多くは髪の毛がベタッとしてます。オール電化の住まいの人達は、今は通常に近い生活が送れています。「電気さえあれば何でもできる」という感じです。しかし、逆に電気の通わない時は完全機能停止していました。「All or Nothing」です。オール電化住宅に住んでいた当院の医師家族は、乳児もいるため、しばらく避難所生活をし、そこから病院へ通っていました。

 通信に関しては、(1978年)宮城県沖地震のときは携帯もメールもあるわけがなく、固定電話が情報伝達の礎でしたから、早期に通信網が回復したことを記憶しています。震災の2〜3日後には、親と連絡取り合えたと思います。

 昨日(18日)、震災から7日目でようやく病院の固定電話が使えるようになり、宮城県の各地の中核病院とも連絡が取り合えるようになりました。この携帯の時代でも、通信手段としての固定電話の役割は非常に重要です。

 人と人(点と点)を線でつなぐのが携帯です。固定電話は病院(各部署あるいは人々)と病院(各部署あるいは人々)を繋ぐことができ、点と面または面と面の関係となります。患者さんからの連絡、病院や官公庁への連絡が格段に改善しました。