長年、宮城県南三陸町公立志津川病院に勤務し、2005年からは同町で開業していた笹原政美氏は、診療中に東日本大震災に被災。自宅兼診療所を失った。その後、避難所で医療活動に従事していた笹原氏は、南三陸町の被災者が集団移住した宮城県登米市で、2011年12月20日に新たな診療所を開業した。笹原氏に診療所の移転再開にいたった経緯について話を聞いた。


ささはらまさみ氏○1972年札幌医大卒。秋田大第一外科入局後、東北大、公立志津川病院(宮城県南三陸町)、米山町国民健康保険病院(現登米市立よねやま診療所)を経て、2005年に南三陸町でささはら総合診療科を開業。同診療所は2011年3月11日に津波で流出したが、12月20日に登米市に移転再開した。

 私が宮城県南三陸町に初めて足を踏み入れたのは医師7年目の1979年のこと。医局から公立志津川病院に派遣されたのがきっかけでした。

 以来20年、海のそばという環境や住民の気質に惹かれた私は、公立志津川病院で勤務を続けました。99年には近くの米山町(現登米市)の国保病院に赴任するため南三陸町を離れたものの、その米山町の病院にも、私を追って高齢の患者さんが南三陸町から来られていたのです。そして、そんな患者さんたちから、「これ以上年を取ると、先生の病院に通えなくなる」との声を聞き、2005年、南三陸町に戻って開業しました。

 診療所には通常の日でも100人程度、多い日には1日200人と、多くの患者さんが来院し、自分が理想とする医療が提供できている手ごたえを感じていました。東日本大震災は、そんな充実した日々を過ごしていた中での出来事でした。

 地震が起きたのはちょうど、午後の診療を始めたときのこと。停電で診療を続けられませんでしたから患者さんやスタッフを家に帰し、軽い気持ちで、災害訓練で使っていた高台に上ったのです。「津波が来る」とは聞いていましたが、防波堤が6mあったので心配はしていませんでした。南三陸町は60年のチリ地震で津波の被害を受けて、毎年災害訓練を行っており、訓練のスタッフとして「スタッフがいかないといけないかな」との思いから足を運んだ程度のこと。何も持っていませんでした。

 ところがそこで見たのは、湾から舞い上がる土ぼこり。あっという間のことでした。津波に飲み込まれた自宅兼診療所は、コンクリートの土台しか残りませんでした。

集団移住者とともに登米へ
 避難先の小学校では、聴診器一つない状況で医療活動を行いました。後から振り返ると、自分が医師だったのは、本当に恵まれていたと思います。ほかの人たちが「明日からどうしよう」と悩む中、「患者さんを診る」という自分の使命に、素直に従えばよかったのですから。悩む必要もなくごく自然に体を動かせたことで、精神的にはずいぶん楽だったと思います。

 私はその後も町を離れず、4月18日からは公立志津川病院仮設診療所で診療に当たりました。診療所には、被災後に隣接の登米市に集団移住した南三陸町民も多く来院していたのですが、「南三陸町まで通えない人も多い」との声も耳にしました。そこで登米市の仮設住宅の近くに診療所を開業することにしたのです。患者さんが動けないなら、動ける私が動けばいい、というわけです。