私は、都立墨東病院に勤務する麻酔科後期研修医である。3月25日から28日までの4日間、福島県相馬市で支援活動を行ったので、この場を借りてご報告する。

 私は3月17日から地震医療ネットワーク事務局で手伝いをさせてもらっている。この時期は、震災から一週間が経過していたが、情報が錯綜していて、本当に必要な情報が分かりにくい状態だった。多くのメディアは被災地の悲惨さを伝えたが、現地では何が必要で、何が問題となっているかを伝えることは少なかった。

 私たちは、新聞やネットから被災地の医療情報を探して、メーリングリストに投稿していた。そんな中、3月20日に、文科省の放射線モニタリングの情報を、相馬市長の立谷秀清氏に伝える機会があった。相馬市は原発から40kmの距離にあり、津波の被害に加え、放射能への不安から一時物流が滞った地域の一つであったが、市長の活躍で徐々に回復していた。しかし、人員不足は続いており、現地の医療者も休みなく働いていると聞いていた。

 このような状況を知るうちに、自分も何か役に立てないかと思うようになった。ただ、自分が一人で行ってできることがあるのか疑問だった。そこで、3月24日に、市長に直接メールを送ったところ、「あなたを歓迎します」というお返事をいただき、翌日相馬へ行くことになった。

 3月25日、東京発の夜行バスで仙台へ向かった。翌26日、到着した仙台駅周辺は静まり返っていた。仙台駅は封鎖され、隣接する百貨店も閉まっていた。多くのコンビニにも、閉店の看板が貼られていた。バス乗り場は早朝にもかかわらず、大勢の人がいた。特に、郡山行きと福島行きのバスはほぼ満員であった。相馬へ向かう途中、新地町あたりから風景が急に変わった。ちょうどバスが通る道を境にして、左手に瓦礫の山が続いていた。

 相馬に着いてまず、相馬市役所に行った。土曜であったが、市役所は職員の方たちが忙しく働いていた。私は市長室に案内され、市長にお会いした。市長の提案で、老健施設「ベテランズサークル」の医師の代わりをすることになった。

 ベテランズサークルに向かう前に、相馬中央病院に行った。相馬中央病院にはすでに東京医大から大滝教授と熊倉医師が支援に来ていた。齊藤院長は「最初の5日間が本当に辛かった。一度は相馬を出ようか迷いました。今は東京医大の先生方もいるし、本当に助かっています。」と語った。

 ベテランズサークルも、震災で被害を受けていた。3階建ての建物自体は壁にひびが入っている程度であったが、ボイラーが故障し、浴室も壊れていた。震災直後は配管の損傷により3階部分が水浸しになり、使えなくなった。施設では2階と3階でそれぞれ49人ずつ、計98人の利用者をみていたが、3階の使用不能とスタッフ不足により、2階に98人を収容していた。献身的なケアにより、震災後に亡くなった方はいなかったが、あるスタッフは「狭い居住空間が利用者のストレスになっているのを感じる」と言っていた。また、リハビリが行えないことにより、膝の関節が固くなり、動かすと痛みを訴える方もいた。

 ベテランズサークルの施設長である山口裕子医師は2児の母で、震災後は子供たちを実家に置いて働き詰めの様子だった。山口医師は「避難指示が出たときのために、診療情報提供書を書いていました。だから、他のことに手が行き届いてなくて…」と言っていた。私は作業のためにほとんどのカルテに目を通したが、利用者の病歴や内服歴など、初めて見る私でも分かるように整理されていた。また、利用者の方から「山口先生と話すと元気になる」という言葉を聞いた。

 同施設に勤務する木村秀一氏は、「みんながここを守るという意識でやっている」と語った。木村氏を含む男性職員が交代制の当直を震災後から始めた。これが利用者を安心させる一助になっていた。

 今回、私が訪れた相馬市は原発事故の影響で敬遠されている地域の一つである。震災後2週間経った当時、食料や医薬品などは確保されていたが、人員不足は深刻であった。現地の保健師は通常業務に加えて、感染症対策やマスク・紙おむつなどの救援物資の管理、災害派遣医療チーム(DMAT)の統括も担っている。3月29日付の朝日新聞で「福島県の保健師派遣計8名のみ」という記事があった。この中で、他県からの保健師の派遣が、宮城県233人、岩手県121人に対し、福島県が圧倒的に少ないことが伝えられた。

 これらの背景にあるのは、言うまでもなく放射能に対する不安であるが、私はこの不安が行き過ぎているように思う。確かに、被曝放射線量は少ないに越したことはない。しかし、そこに人が住んでいる限り、その地域を敬遠すれば済むわけではない。現地では人的支援が必要とされている。放射能に対する恐怖は個人の判断であるが、その判断の根拠はより正確にするべきである。