さらに、食事をしている間に暖かい寝床が用意されていた。癒しに来たつもりが、いきなりこちらが癒されてしまった。私たちの部屋では私と清水が最年少であり、気づくとおばちゃんたちのアイドルになっていた。「こんなに太ったまま痩せないの。私たちこれでも避難民。はっはっは」とゲラゲラ笑うおばちゃん。

 おばちゃん達は明るい。たくましい。しかし、私たちを気遣い、明るく振舞っている彼女たちの家は流され、親族は行方不明で、仕事で使う船も流されている。今後、仮設住宅に移り住めたとしても、漁業という中心的な産業がまるごと破壊された状態で、どうやって生計をたてていったらよいのだろう。誰が助けてくれるのか。

 実は、彼女たちは毎晩睡眠薬を使用しており、夜はあまり眠れていないようだ。ある早朝に震度5弱の余震が来たときに、私と清水は布団の中でのんきにごろごろしていたのだが、避難所の人々は素速く揺れを察知して、驚くほど速く逃げるために身構えた。未来は不安だらけで、現状はこんなだ。安心なんてないし、熟睡もありえない。

 仮設診療所で診療中のこと。患者さんが持参した薬の薬効が分からず、診療がもたついたことがあった。私が、「すみません。時間がかかってしまって」と謝ると、患者さんは「いえいえ、とんでもありません。東京から来てくれたんですよね。ほんと…ほんとうに助かります。ありがとうございます。ありがとうございます」と声を震わせてうつむいてしまった。

 東京のERで昼間から夜通し働いても、こんなに感謝されることはめったにない。東北では人手が足りていないのだ。東北に派遣されたスタッフから、「人手は十分に足りていた」と聞くことがあるけれど、それは嘘だ。人員配置を間違えているだけだ。限界を超えて自己犠牲を払っている人、辛くても口に出せない人が少なくとも気仙沼にはいた。

 私たちは発災から2週間が経過した時点で現地入りしたのだが、すでに被災直後とは必要とされる物資が変化していた。「カップ麺や白米は余っているが、たんぱく質が足りていない」「医薬品は充足している」「重症患者の搬送は終了した」「避難所の栄養状況が悪く、慢性疾患が悪化してきている」「精神科の医師の診察が必要になってきている」などである。

 被災地の状況は常に変化しているのに、今日と明日では必要なものが異なるのに、その全体像を把握できている人は誰もいなかった。私たちが会った市役所の職員は、疲弊していた。そもそも、情報の収集と整理に必要な人手が足りていないのだ。復興までの何年にも渡って、このような人手不足が続くかと思うと気が遠くなる。

 復興には何年もかかり、支援も長期にわたって必要となる。医者でも医者ではなくても、体が動けば役に立てる。友人たちも、個人的に支援機関にオファーして、現地に行っている。適切な機関を通じて行けばいいのだ。不安と無力感にさいなまれるくらいなら、思い切って行ってしまえばいい。人手は足りてないのだから。