宮城県石巻市は津波による水が引き、自衛隊による幹線道路の復旧が徐々に進んでいます。3月11日の地震と津波の後、石巻市は情報から孤立した状況に置かれました。

 仙台空港が津波に襲われる映像がテレビで繰り返し流されたため、全国から集まってきたDMATは仙台近辺の被害が大きいと考え、仙台入りしました。しかし、県内の他の被災地域の情報がなく、すぐに戻った隊もあったそうです。この時点で石巻から南三陸沿岸にかけての被災情報が仙台にはあまり入っていなかったようです。石巻市から、県の対策本部へ被災状況が伝わっていなかったのでしょうか。もっとも、石巻市役所は水没し、停電と固定電話・携帯電話の不通などにより市役所に被害情報が集約されなかったことが、県への正しい情報伝達を妨げたのだと思います。このため、石巻市立病院の被災情報を市が知ったのは2日後のことでした。

 石巻市立病院は海岸に立地していたため、津波により周囲が海とつながって、完全に孤立しました。水没のため自家発電も使えず、医療スタッフ、患者は押し寄せる水と断続的な余震の中、長い間恐怖に晒されていました。同院の医師が自力で脱出して市役所に直接知らせ、それからやっと自衛隊ヘリによる患者救出が始まりました。

 避難所への搬送も、情報不足に苦しみました。石巻赤十字病院にヘリや救急車で運び込まれ、治療を終えた傷病者や家族は、避難所への交通手段と避難所の受け入れ状況が分からなかったため、被災後72時間経過した時点で院内に約500人留まることになりました。具体的には、市が辛うじて手配してくれた、地元の観光会社のマイクロバス2〜3台が市内の避難所を回り、受け入れ可能な人数を下ろして、次の避難所を探すといったものでした。病院から出たバスが戻ってくるのに長い時間を要し、院内の避難者はなかなか減らない状態でした。

 避難所への搬送を県や自衛隊に直接交渉しましたが、そんな情報は上がってきていないと、まともに対応してもらえませんでした。院内も救急対応で人手が足りないため、3人のスタッフでこれだけの人数に対処しなければなりませんでした。彼女たちは、避難所搬送が進まないことに怒り、情報の少なさに絶望的な気分でロビーで夜明かしせざるをえなかった被災者たちに、夜遅くまで対応していました。その職員の中には家族の安否も分からないまま職務を続けていた者もいました。

 避難所の情報も市が把握できず、食料や水などの救援物資が3日以上届かない避難所がありました。市が指定した避難所では収容しきれず、その何倍もの避難所が存在していましたが、通信手段がないため情報が市に伝わらなかったようです。

 避難所搬送での問題点は、受け入れ拒否となる対象者の存在でした。津波で流されて救助された被災者は家族同伴であるわけがなく、自力歩行できない被災者・傷病者や、寝たきりの高齢者、一人身の認知症の高齢者を受け入れる避難所がないため、介護や医療のスタッフがいる避難所ができるまで、院内に留まらざるを得ませんでした。

 また、週3回の透析が必要な被災者も、避難所との間の交通手段がないため、院内に留まることになりました。在宅酸素療法が必要な被災者も、停電により酸素濃縮器が使えないため当院に収容され、院内の各所に留まることになりました(約70人)。彼らは入院患者ではなく、当院は避難所でもないため食料も水も供給できませんでした。透析患者を収容する避難所が設定され、市と交渉の末シャトルバスを運行してくれるようになったのは、地震後約1週間のことでした。

 現在の喫緊の問題は避難所への支援です。食料の配給は、おにぎり1個、パン1個、それに果物類が加わるだけという分量です。これが1日分です。ボランティアや自衛隊による炊き出しが行われている避難所でなければ、極めて厳しい内容です。市ではこれらの配給さえ厳しい状況で、支援物資が届かなければすぐにでも倉庫の底をついてしまうとのことでした。

 また、衛生面も悪く、1000人の避難者に対し、仮設トイレが6基のみという避難所や、飲料水が足りない避難所など、感染症対策、エコノミークラス症候群対策の実施には程遠い環境と言えるでしょう。

 現在、避難所の情報収集は市と赤十字救護班で行っています。その結果を元に必要な物資の供給を県に依頼しています。しかし、十分な支援物資は届いていません。避難所には約2.5万人、食料の配給を必要としている住民も約4.5万人います。合わせて7万人分の食料供給が必要です。食料が届かないため、略奪が起きているとも被災者から聞きました。

 新潟中越地震や阪神淡路大震災でも、震災後の関連死が多数あったことを考えると、これから起こるであろう悲劇を最小限に食い止められるかどうかの分岐点に今、差しかかっています。支援物資が比較的豊かな仙台市から車で1時間の距離なのに、その格差は大きいのです。