仙台社会保険病院腎疾患臨床研究センターの木村朋由氏

 東日本大震災が発生した3月11日。その日の夜9時時点で、宮城県内の53の透析施設は、100%が停電し、91%が断水した。翌日の朝9時時点では、透析が可能な施設は9施設しかなく、使用可能病床は239床と震災前の14%に過ぎなかった。仙台社会保険病院腎疾患臨床研究センターの木村朋由氏(写真)は、6月17日から横浜で開催されている日本透析医学会(JSDT2011)の緊急企画「東日本大震災と透析医療」で登壇、「最終拠点病院」として透析医療の危機を如何にして乗り越えたのかを語った。

 木村氏はまず、今回の大震災における被災状況を振り返った。宮城県全体の死者は9166人、行方不明は5058人で、日本全体(死者1万5341人、行方不明8298人)の大半を占めていることを改めて強調した。その上で、県内の透析患者の被災状況も報告した。それによると、透析患者4700人中、震災で死亡したのは35人、行方不明は10人、震災関連死は23人だった。死者、行方不明者とも県東・沿岸部に集中しており、今回の大震災では津波による被害が甚大であったことを物語っていた。

 発生直後、宮城県内の透析施設に何が起こっていたのか。木村氏によると、3月11日の夜9時時点で、停電が53施設(100%)、断水が48施設(91%)、装置や建物あるいは配管の被害が40施設(75%)で確認されたことが明らかになった。発生の翌日の朝9時時点のまとめでは、透析可能な施設はわずか9施設、使用可能な病床は239床で、震災前の1739床の14%に落ち込んでいた。「血液透析医療は災害に弱く、ライフラインに依存した治療であることを実感した」。木村氏の声に力が入る。

 最終拠点病院として、県内の透析医療を支えてきた仙台社会保険病院はどうだったのか。震災当日。病院ではまず、入院患者の安全確保に動いた。患者全員をいったん屋外に避難させた上で、施設の被災状況を確認。損傷が少ないと判断された第1病棟(215床と検診センター)に分散非難とした。全部で420床の病院は、第1から第3まである病棟のうち第2病棟(150床)は、損傷がひどく、現在も使用不能の状態だ。残ったのは第1病棟と第3病棟(55床、透析センター)だった。「酷なことに、この日は雪が降った」(木村氏)。スライドに映し出された屋外に避難した患者はみな、幾重もの布団に身を包んでいた。

 幸いにも患者、職員に人的被害はなかったが、震災当日は、患者も職員も、ろうそくの炎の下で食事をせざるを得なかった。

 肝心の透析設備は、自家発電機の稼動、給水車の手配の上に、治療に必要な部品確保に動き回った結果、震災当日に透析機械の試運転に成功。翌12日には、「透析可能」な状態に復旧したという。

 木村氏は、電気とガスの備えが功を奏したことを強調した。同病院では、非常事態に備え、大容量の自家発電設備を設置していた。これにより、照明だけでなく、人工透析も継続できる能力を確保していた。また、ガスは、災害を想定し、10年前に都市ガスからプロパンガスに変更していた。このため都市ガスの供給途絶による影響を受けることなく、震災翌日から温かい食事を提供することができた。

 「阪神淡路大震災、新潟中越沖地震の教訓、さらには宮城県沖地震の体験を踏まえて、地震対策を積み重ねてきたことが、今回の大震災で十分に生かされたと感じる」と木村氏。

 日ごろから地域の透析医療の最終拠点病院を目指して活動してきた同病院は、震災直後からその真骨頂を発揮することになった。震災当日の夜半、県内の透析患者が同病院に押し寄せ始めた。この時点では、他施設との連絡がつかず、孤立無援状態での震災対応が始まった。

 多くの透析施設が被災し「透析難民」が続出することを予測した病院は、震災翌日早朝から、ラジオを通じて「24時間体制で透析を行っている」「すべての患者さんを受け入れます」などと呼びかけた。透析病床63床は、3月12日朝9時から3月15日昼の12時まで、夜通しで稼動し続けた。当日に302人、翌日に424人と続き、震災からの1週間で延べ1759人に透析を行った。現場スタッフは、ほとんど寝ずの対応をしたのだという。彼らの献身的な活動がなければ、決して乗り越えられなかったに違いない。

 他施設の透析医療が復旧し始めた3月16日からは、夜中の透析は中止。このころから患者数も日に142人、129人、134人と落ち着いていった。

 震災1週以降は、体調を崩した透析患者が緊急搬送され、そのまま入院となる事例が目立ったという。木村氏は、震災後の生活が過酷だったことがうかがえると指摘した。避難所などの環境下では、自分が透析患者であることを言い出せずにいる患者が多かったことも一因となったようだ。

 震災の急性期を乗り越えた後の震災1週以降、同病院の役割は、透析条件の再設定、投薬内容の調整、食事内容の改善などを通じた「患者の体調を元に戻すこと」(木村氏)に移っていった。

 「透析医療の最終拠点病院の役割を果たすことができたと安堵している」とまとめた木村氏は、最後に今後の課題も挙げた。

 1つは通信手段の整備。震災直後の最大の問題は、インターネットや無線、電話などの通信手段が断たれたことだった。中越地震でも活躍したMCA無線(Multi Channel Access System)は、バッテリーが1時間半で切れ、また基地局間の光回線が遮断されて通話不能に陥るという問題が発生した。今後は、こうした課題を克服するとともに、第二の連絡網の整備、たとえば衛星電話や、今回の大震災でも震災当日から活躍した通常の携帯メール網の整備などを検討していくべきとした。

 2つ目は災害時透析拠点病院の整備。今後は宮城県内の総合病院7施設を核に、たとえ通信が遮断され孤立無援状態に陥ったとしても、透析医療を維持し続け、透析患者を受け入れていく体制作りを進めるべきとした。

(日経メディカル別冊編集)