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2009/3/3

先輩患者からのアドバイス どんな状況でもあきらめたらおしまい 粘り強い治療を(上)

 
 中島英子(あやこ)さん  
 
 
 高知がん患者会一喜会 安岡佑梨子さん  
 
 1999年8月末、中島英子さんに胃がんが見つかり、たちの悪いスキルス性であることが判明。当時22歳。母の安岡佑梨子さんは「ここまで育てて、死なせるわけにはいかない」と一緒に闘うことを決意。母娘の闘病生活が始まった。

 8月、よさこい祭りに参加するため、高知市の実家に帰省すると、私の顔を見るなり、母が「顔が青白いし、すごく痩せた。おかしいんじゃない」と。大きな病院に行くことを勧められ、自宅のある高松市に戻ってから別の病院を再度受診しました。

 担当医には「若いからストレスなんじゃないの」と言われましたが、診察してもらうのに長い時間待ったので、胃のバリウムX線検査をやってもらいました。1週間後、検査結果を聞きに行くと、「すぐに胃カメラの検査を受けてください。それから親御さんにも来てもらって」と言われ、担当医の態度が一変したことに戸惑いました。それでもまさか自分ががんだとは思わなかったのです。

 8月末に胃内視鏡の検査を受けて、腫瘍ができていることがわかり、手術が必要だと言われました。それで、母に連絡したら、高知市の大学病院に転院する手筈が既に整っていたのです。

「助けたい」という医療者の良心に灯をともすのは患者の必死さ
 母・安岡佑梨子さんは、高松市の病院の医師から娘が胃がんであることを告知されていた。幼なじみの内科医に相談し、娘の治療を高知市の大学病院で行うことを決意。そして、紹介されたのが外科医の松浦喜美夫医師だった。

母・安岡さんと松浦医師
母・安岡さんと松浦医師

安岡 組織診断の結果、娘はボールマン4型未分化の印環細胞胃がんと診断されました。いわゆる「スキルス胃がん」です。すでに腹膜播種を起こしており、1年後の再発率は80%。松浦先生から「娘さんの好きなことをさせてあげなさい」と言われたけれど、女手一つでようやくここまで育てたのに、死なせるわけにはいかないって――。

 娘には術前の抗がん剤治療を受けるときに胃がんであることを伝えていましたが、深刻な状態であることは言えませんでした。娘と一緒に私が闘うしかない。それから胃がんの治療を勉強するために、連日の医学図書館通いが始まりました。最初は未知の世界に踏み込んだようでしたけど、勉強すればするほど、どんな治療が必要なのかよくわかるようになりました。また、新しい治療法を知ることは「これで治るかもしれない」という希望にもつながりました。

 松浦先生には「1年半、再発しなければ少し光が見えてくる」と言われていましたから、それは必死でした。医師とよく相談したうえで治療法を決めましたし、納得できないことは自分の意見をきちんと伝えました。

 例えば、シスプラチン+5-FUの抗がん剤治療を行っていたとき、呼吸困難の副作用が出たのです。松浦先生は治療を中止することを決めましたが、私は呼吸困難の副作用はシスプラチンによるものだと考え、「5-FUは続けてください」と頼みました。5-FUをやめてしまったら、5-FUの効果を高めた形の新しい飲み薬S-1も使えなくなる。そうなると、がんが再発したときに闘う手段がなくなってしまうことが怖かったのです。

 松浦先生は少し考え、呼吸困難に備えてステロイド系の注射を用意したうえで、5-FUの治療を続けてくれました。そして、私の予想どおり呼吸困難の副作用はシスプラチンによるもので、二度と現れませんでした。

 なぜ、松浦先生は医療者ではない私の意見を受け入れてくれたのか――。先生が患者家族の気持ちを尊重してくれるよい医師だったということもあります。でも、それだけではありません。私が必死だったからです。患者や家族の必死さが「ちょっと、待てよ」と、医療者を立ち止まらせる。そして、もう一度、選択すべき治療の中身や方法について考えてくれるのです。

 「この患者を何としても助けたい――」。医療者の良心に灯をともすのは、患者の必死さではないかと思います。患者や家族が心のどこかであきらめていたら、医師も必死で治療はしてくれません。

 それでも、治療中は不安になって「セカンドオピニオンを受けたい」と申し出たこともあります。松浦先生は「いいよ」って。「紹介状は何枚でも書いてあげるから日本中のがん専門医を一緒に探そう。その代わり、他によい治療法があったら、僕も勉強したいから教えてほしい」と言われました。

 この言葉に励まされて、私はありとあらゆる著名ながん専門医に手紙を書きました。100人はゆうに超えるのではないでしょうか。そのうち返事が来たのは3人だけ。いずれも厳しい内容で、なかには緩和ケアやホスピスを勧める医師もいました。松浦先生と一緒に娘を助けよう――。こうして、私は主治医との強固な信頼関係を作っていったのです。

数日で叶えられる小さな目標を積み重ね、生きる希望をつなぐ
 母・佑梨子さんが松浦医師と二人三脚で、再発を防ぐための努力を続ける中、娘・英子さんも抗がん剤の副作用や後遺症のダンピング症候群、そして心の不安と闘っていた。

中島 抗がん剤の副作用による吐き気や倦怠感もつらかったけれど、それ以上に術後の後遺症であるダンピング症候群に悩まされました。治療の選択に関しては、母が猛勉強して先生と相談して決めてくれていたので、私は自分の体との闘いにじっくり専念できる環境でした。それだけに調子のよい日は一口でも多く食べて体力を回復させたいと思っていたのです。

 ところが、最後の一口を飲み込んだ途端、背中から脇腹にかけて激痛が走り、初めてダンピング症候群を経験したときは、残った胃の縫合部分が裂けたのかと勘違いするほどの激しい痛みでした。そして、食べ物が通過するまでの約1時間、背中をまるめてタオルを噛み締め、その激痛に堪えなければなりません。食事をするのが怖くなり、一生食べられない体になるのではないかと不安でした。術後3年は、このようなダンピング症候群との闘いが続きました。

 でも、私のために死に物狂いで頑張ってくれている母には、これ以上、つらい思いはさせたくないから、「きつい」とか「嫌だ」とか、決して泣きごとは言えない。そんな私を精神面で支えてくれたのが当時付き合っていた今の主人です。入院中は、高松市から高知市までの150キロの道のりを、車を飛ばして3日に1度、会いに来てくれました。そして「絶対に治るから、大丈夫だから」と励まし続けてくれたのです。

 点滴による抗がん剤治療を1年3カ月続け、その後はUFTという経口薬の抗がん剤に切り替えて治療を続けました。再発の不安はだんだん薄らいでいったけれど、数年先のことはとうてい考えられない状態。今日できること、明日できることを何とかこなし、少しずつ普段の生活を取り戻していく自分の日常に幸せを感じる日々でした――。でも、それでいいのだと思います。

 3食きちんと食べられる、仲のよい友人と買い物に行く、1泊旅行に出かけるなど、数日で叶えられるような小さな目標を達成することによって、生きる希望をつないでいく。気がつけば、1年が過ぎ、3年が経ち、5年が来ていました。

 私が母から自分の本当の病状を打ち明けられたのは、無事に3年を越えたときです。「こんなに重い事実を抱えてくれていたのだ」と、あらためて母に対する感謝の気持ちが沸いてくると同時に、真実を伝えられずによかったとも思いました。22歳の私に受け入れることはできなかったでしょうし、精神的にダメになっていたかもしれないと――。

<(下)に続く>

(まとめ:渡辺 千鶴)

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