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2009/2/3

先輩患者からのアドバイス これからの人生「人のためになること」をするのが私の使命

 
 リレー・フォー・ライフ横浜実行委員会 NPO法人がん患者団体支援機構 三浦 秀昭さん  
 
 2003年、肺がんが見つかり「ステージ3b」と診断される。再発をきっかけに医師に“おまかせ”の治療選択に疑問を感じる。それ以後、主体的に治療に関わるようになり、2度にわたる再発・脳転移を克服。一方、脳転移の絶望の中で出会ったチャリティー・ウォーク「リレー・フォー・ライフ」の活動にも力を入れ、2008年には全国6か所でイベントを開催、寄付金1100万円を集め、日本対がん協会の活動や若手医師の研究を支援している。

 肺がんの告知を受けたのは2003年4月20日のことです。当時46歳でした。

 その前年の10月、会社の同僚が結核にかかり、同じプロジェクトチームで働いていた私も念のために検査を受けることになりました。その過程で肺にあやしい影が見つかり、精密検査を行った結果、右肺中葉の奥に3センチを超える原発巣と縦隔リンパ節への転移がわかったのです。ステージは3b期。非小細胞がんの肺腺がんでした。

 1日にたばこを40本以上吸うヘビースモーカーで、自覚症状として咳も続いていました。しかし、会社では重要なポストを与えられ、連日夜9時過ぎまで働き、週末は自宅で企画書を作成するという毎日。体の具合が悪くても、そのうちに治るだろうと、自分をだましだまし働いていました。まさかこの若さで、がんになるとは思ってもみませんでしたから――。

 がんの疑いがあるとわかった日、たばこはスパッとやめました。その頃には血痰も出ていましたし、このまま吸い続けたら命がなくなると思ったのです。不思議と禁断症状も現れず、今日に至るまで1本も吸っていません。

再発をきっかけに“おまかせ医療”に疑問を感じるように
 既に手術ができる状態ではなかったので、治療は化学療法(シスプラチン+ビノレルビン 3クール)と放射線治療(胸部放射線70グレイ)を組み合わせて行いました。インターネットを活用し、自分なりに治療法を調べましたが、知識はないし、担当医の指示どおりの治療を受けました。

 化学療法を受けたときは吐き気と骨髄抑制を、放射線治療では放射線性肺炎を起こしました。骨髄抑制も放射線性肺炎も、それほど自覚症状を感じるものではありませんが、白血球や肺活量の数値がどんどん悪くなり、放射線性肺炎のときはステロイドによる治療を受けて乗り越えました。

 6〜7カ月の間、入退院を繰り返し、筋力も体力も低下したけれど、原発巣と縦隔リンパ節のがんを何とかうまく抑え込み、翌年(2004年)1月には念願の職場復帰を果たしたのです。

 ところが、その5カ月後に縦隔リンパ節に再び転移。放射線がかかっていない部分――つまり、放射線治療していなかったところにがんが出てきたのです。このとき、担当医から提案されたのは放射線治療でした。しかし、この治療法で本当によいのか、医師におまかせの治療選択でよいのかという疑問を感じるようになりました。

 医師が一番良い方法だといって勧めてくれても、がんの治療に100パーセントはありません。治療がうまくいかなかったときに後悔しないように、自分の命には責任を持ち、十分に納得したうえで治療を受けるべきではないかと。

 そこで、神奈川県立がんセンターをはじめ、いくつかの医療機関でセカンドオピニオンを受けました。なかには「この状態なら化学療法しかない」と、担当医とまったく異なる意見を持つ専門医もいました。また、私自身もいろいろな治療法を組み合わせて行いたいという希望がありましたので、他の専門医の意見や自分の希望を、担当医にぶつけてみました。

 最終的には放射線単独の治療を選択したのですが、その過程ではずいぶん担当医と議論を重ね、こちらの希望も取り入れてもらえました。「担当医の提案どおりの方法を行う」という状況は、最初の治療のときと同じですが、治療選択に関する満足度や納得度は全然違いました。それからですね、担当医を信頼し、コミュニケーションがきちんとできるようになったのは――。

情報を集め治療法を検討し、本気でがんと闘う
 5年10カ月の闘病生活の中で、大きな転機になったのは脳への転移(2005年6月)が見つかったときです。それまでは、肺にあるがん細胞を何とか抑えながら、仕事を続けていこうと考えていました。しかし、がん細胞が脳に出現したということは、既にがんが全身に散らばっていることを意味します。

 「本気でがんと闘わないと死ぬんじゃないか」。

 こんな気持ちになりました――。私は26年間勤めた会社を退職することを決意し、がんの治療に専念することにしたのです。人生の半分以上の時間を仕事に打ち込んできましたから、辞めるのはとても無念でしたが、命には代えられないと思いました。

 そして、がんの治療についてはこう考えました。がんを発症するときは、単独の原因によるものではない。ストレスや環境、それらがもたらす精神的・肉体的な影響など、いろいろな要因が複合的に重なり合ったときに発症するのではないか。そうであるならば、単独の方法ではがんは治せない。治療、生活、考え方など、すべてのことをプラスになる方向でやっていく必要があると。

 それで「がんに良いといわれることは何でもやってみよう」と考えたのです。標準治療だけでなく、エビデンス(科学的根拠)が低い方法も一つの可能性として、治療の組み合わせの中に入れていこうと。やってみてよくなければ、やめればいいことですから。

 脳転移の治療は、まさにこの姿勢で臨みました。インターネットを中心に情報を収集し、なかでも参考になったのが闘病記です。闘病記を通して知り合った肺がん患者さんに話を聞いたり、意見交換をしたり。お互いに真剣ですから、患者さんの情報が一番プラスになりました。そして、得た情報を基に自分なりに良いと思われる治療法を検討し、それを担当医と話し合いながら、最終的に決定しました。

 このとき、私が選んだのは3つの方法です。まず脳に転移したがんには数回に分割して放射線を照射する定位放射線治療(SRT)を、全身に散らばっているがんには化学療法(S-1+シスプラチン)を行うことにしました。この抗がん剤の組み合わせは、私と同じように脳転移を経験した先輩患者さんのアドバイスによるものでしたが、当時、肺がん治療にS−1を使用した症例は50人ほどで、私が治療を受けていた大学病院では初めてのケースでした。

 また、初回治療の際、抗がん剤の副作用として骨髄抑制を引き起こしたので、その対策として免疫療法を取り入れることにしました。いずれも標準治療ではなく、とくに免疫療法はエビデンスのない治療法ですから、担当医は難色を示しました。

 しかし、担当医に黙って免疫療法を受けたくなかったので、私は免疫療法を実施する医師とも妥協のない議論を重ねて決めたこと、免疫療法を行うことで何か問題が起こったときは自分の責任とすることを話し、担当医の理解を求めました。最後は私の希望を認めてもらえましたが、担当医とはそれまでに信頼関係を築けていたからこそ、可能だったのかもしれません。

 こうして、独自に組み合わせた全身への治療法(S-1+シスプラチン+免疫療法)を「COMBAT作戦」と自ら名付け、今度こそ徹底的にがんを追いつめる覚悟で、闘いに挑んだのです。幸いにも治療は功を奏し、あれから2年10カ月の歳月が経ちますが、がんの再発・転移はなく、現在は3カ月に1回の定期検査を受けている状態です。

将来を予測し備えることで、がんを忘れられる時間が多くなる
 脳への転移を起こした時点で、私のステージは4期に上がり、肺がんの5年生存率をみれば、そこにはとうてい受け入れがたい数字が現れてきました。その数字を最初に見たとき、やはり愕然としました。しかし、それは一つの現実なのでしょうが、生きられる可能性からみればゼロではない。

 いわゆる「末期」といわれる状態でも生きている人はいるのです。

 ならば、5年生存率の数字に捉われるのではなく、そういう患者さんの話を聞いたり、経験を学んだりすることによって、私も生きられる可能性を追求したい。そのためにどうすればよいのかということが患者には求められているのだと思えたとき、以前ほど5年生存率の数字にこだわらなくなりました。

 これは、がん患者にとってつらい作業ですが、現状を分析し、この先自分がどうなっていくのかを予測することが大事です。そして、そうならないためにはどうすればよいのかを徹底的に考える。すると、次に選択すべき治療法が出てくるので、その効果を検討し、効かなかった場合も想定して次のプランを練っておく。

 状態が安定していても、このような準備を事前にしておくと、不安がなくなり、がんを忘れられる時間が多くなります。また、将来を予測し、その事態に万全に備えることが具体的な形での「あきらめない」ということだとも思うのです。

絶望の中で始めた「リレー・フォー・ライフ」の活動に希望を見出す
 今、私が情熱を傾けているものの一つに「リレー・フォー・ライフ」という市民活動があります。直訳すれば「命のリレー」。1985年に米国の医師が始めたチャリティー・ウォークで、今や全米5000カ所以上で開催され、年間400億円の寄付を集めるイベントに発展しています。

 この活動を知ったのは、まさに脳転移が見つかった頃。自分に与えられた時間は限られていると実感したとき、何ができるのかということを真剣に考えるようになりました。そして、2005年5月に開催された「がん患者大集会」に参加し、そこで紹介されたリレー・フォー・ライフの映像を観て、自分の探していたものを見つけたと思いました。人生の最後に「人のためになる」ことをするのが私の使命だと感じたのです。

 こうして、絶望の中からリレー・フォー・ライフ・ジャパンの活動は始まりました。

 まず日本での実現を呼びかけるブログを立ち上げ、賛同してくれた仲間とともに「がん患者支援プロジェクト」を設立し、2006年9月に茨城県つくば市で、日本初のリレー・フォー・ライフを開催しました。8時間のチャリティー・ウォークでしたが、患者や家族、医療者の思いが一つになり、集まった患者たちが希望を持てるイベントとなりました。

 また、このイベントを通して、がん患者が声を挙げることが、がんのイメージを変え、がんになっても不安のない社会をつくることへの第一歩になるのだと痛感しました。がん患者が前向きに生きられるようになることがリレー・フォー・ライフの本当の意味であると――。

 つくば市から始まったリレー・フォー・ライフ・ジャパンは、イベントに参加した人たちから徐々に広がり、今では「盆おどり」のように地域住民が主体となり、各地で催されるようになりました。2008年は全国6カ所で開催し、総額1100万円の寄付を集め、日本対がん協会の活動や若手医師の研究を助成することができました。今年も全国15カ所での開催が予定されています。

 3年後には全国100カ所で開催し、2億円の寄付金を集め、現在の支援も続けながら、新薬の開発研究をサポートすることも目標にしています。ここ数年の広がり方からみれば、それは決して夢ではないと思うのです――。

(まとめ:渡辺 千鶴)

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