阿蘇は阿蘇でやってもらいます
「阿蘇医療センター院長、甲斐豊です。ありがとうね、ICTやってくれて。お〜、川口先生」
 ドアから颯爽と男が入ってきて、甲斐の隣に座り、握手をした。熊本県感染管理ネットワークの川口辰哉(熊本大学附属病院)。
「大変でしょう、甲斐先生」
 どうやらふたりは旧知の仲で、甲斐が川口に電話をかけてくれたようだ。実は、僕はリーダーを言い渡されてすぐ、川口に電話を入れていた。組織上は県が上なので、指示を仰いだのだった。その時はお互い忙しく、挨拶程度の話しかできなかった。

ICTの打ち合わせの場で長崎大学が担当することを提案。左から時計回りに厚生労働省DMAの梶野健太郎、阿蘇医療センター院長の甲斐豊、筆者、熊本県感染管理ネットワークの川口辰哉(熊本大学)、ADRO事務局の長島尚子。

 ADRO事務局リーダーの伊藤が入り、机を囲む。周りにICTに組み入れられた看護師の猿田麻耶と長島尚子、長崎大のメンバーが立っていた。
「川口先生の指示の下、感染対策を行います」
「じゃあ、組織図上は川口先生が上に」
 僕の意見に伊藤も賛同したが、川口が否定した。
「いや、連携してアドバイスなどは適宜行いますが、阿蘇地区は阿蘇地区でやってもらいます」
 県内全域を回る川口は、阿蘇に滞在する時間を取れないのだろう。それを聞いてヘタレの僕は気が動転したのだろう。つい言ってしまった。
「それでは、もしよかったら、このICTを長崎大学で受けていいですか? 僕は確かにICDで、長崎医療センターでリンクナースを立ち上げたり、福島の避難所で手洗い指導などをしたことがあります。しかし、にわかリーダーです。本物のリーダーを長崎から呼び、少なくとも数週間はやります。責任を持って継続してやります」

 ハッタリである。顔から本当に冷や汗が噴き出していた。足が震えていた。
 「それは助かります」
 3人から異口同音に返ってきたとき、長崎大第2班の最年少で紅一点、看護師の久志愛美が僕の正面に見えた。
(それって、マジ、やばいんじゃね? 病院長の許可とってないし〜)
 そんな顔をしていた。
 ふー。ほんの2〜3分の打ち合わせが終わって、甲斐と川口が病棟の方へ向かうと、僕は大きく息をした。コーヒーが飲みたい。しかし、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる暇なんて全然なかった。

ロジスティクスの猿田麻耶看護師

先生、今日中に来て!
 ICTチームの猿田は事務局の窓際の一角に2つ机を並べてくれた。
「ここがチームの基地ですね」
 すぐに延長コードを引き、パソコンを並べ、組織図を吊り、配布リストを作り、コピーをとったり、非難所に連絡したり…、1秒たりとも手を止めない。かなりできるふたりだ。
 猿田はDMATにロジで入っている。ロジとはロジスティクスの略で、災害医療において情報収集、連絡、調整、記録、その他諸々を担う「業務調整員」という役職らしい。5年前の大震災の反省から作られたと、厚生労働省DMAT事務局次長の梶野健太郎から聞いた。今回の震災で初めて20人の精鋭が投入され、そのひとりが猿田だ。とにかく、ADRO本部には様々な情報が入り、それらの記録や整理だけであっという間に時間がたつ。

事務局窓際の一角に出来上がったICT基地でパソコンに向かう筆者

 ICTの基地ができる頃、僕はSOSを大学本部へ送った。11時51分に送信した件名は、
<感染症専門家の派遣を!>
 泣きのメールだ。
<ここは、我が大学のお家芸でもある感染症分野で被災地に貢献すべきと思います。至急、人選をお願いします!!>
 最後にはここまで書いていて、後で読み直したら、ほとんど脅迫メールだ…。
 長崎大学病院長の増崎英明が、すぐに呼吸器内科教授の迎寛や熱研内科教授の有吉紅也たちと調整し、感染制御教育センター教授・泉川公一の派遣が決まった。事務副部長の浜村博が調整に奔走してくれたおかげだ。
 明日の朝には泉川が来ると、浜村から連絡があった。
 明日か…。
 それからしばらくして、14時くらいだったと思う。泉川から連絡が来た。向こうが話す前に、開口一番、僕は叫んだ。
「先生、すぐに来て! 明日朝9時に自衛隊のICTも3チーム加わって、僕の下に付くことになった。夜中でもいいから、今日中に来て!」
 
 感染症の怖さは知っている。
 アウトブレイクすると病棟が閉鎖、ひどいときには病院が閉鎖になる。僕も病院閉鎖手前の経験はある。
 卒後3年目の頃、小浜町(現・雲仙市、温泉の街)の小さな病院で、ひとり当直。修学旅行の下痢嘔吐の患者が、ひとり、ふたり、3人と来て、最終的に一晩で20人以上が運ばれてきた。小さな病院はパニックに陥り、他の患者を受け入れきれなくなった。一度も怒ったことのない好々爺の病院長から、「病院を殺す気か!」と怒鳴られた。全部受けてしまい、病院の機能を麻痺させたのは自分だった。
 幸いにもノロではなかったので、他の患者さんには感染しなかったが、怖さは十分に叩き込まれた。ましてや、ここは被災地。避難所でいったん感染が広まれば、その数は計り知れない。受け入れ可能な病院は少ないだろう。

 この時点では、数カ所の医療機関に感染症患者用の入院ベッドを、甲斐が確保してくれていた。熊本日赤が男8、女8。ほかも合わせて、この晩は30人程度は受け入れられる態勢だ。しかし、アウトブレイクすれば、それでは全く足りないことは火を見るより明らかだ。
 僕は大げさ人間だし、心配性のヘタレである。しかし、今はどう呼ばれようと、被災者を守るためには、専門家に1秒でも早く来てもらうに越したことはない。
「泉川先生、何とかして今日中にたどり着いてください!」
「わかりました。すぐに出ます!」

 それから数時間、様々な業務に追われながら泉川を待つ。これほど人を待ち焦がれるのは、いつ以来だろう。中学生の時の初デート以来かもしれない。


※「崎長ライト、熊本へ」以前の回はこちらから
(その1)帰還したDMAT第1陣、「歓迎」に心震えた
(その2)指令、ノロキットを受け取り阿蘇へ
(その3)阿蘇地域のICTリーダーに