災害医療支援チームのリーダーとして熊本に入り、阿蘇へ向かった崎長ライト氏。待機で始まる2日目ですが、事態は急展開していきます。(編集部)

 このたびの熊本の地震で被災された方に心よりお見舞い申し上げます。
 このコラムは医療情報や被災情報を正確に発信するという性格のものではなく、被災地での医療支援で起こったこと、見聞したことを「崎長ライト」という物書きの視点で描くものです。完全なノンフィクションというより脚色を含んだ物語です。災害医療を将来担う若い医師や医学生の役に立てば幸いと思い、書いています。第2話も「読んだよ、頑張って書いて!」と熊本で頑張っている仲間から連絡がありました。
 「災害医療は功名を競うものではない」との批判もあるかと思いますが、「続きを読みたい」という読者も多数いるようですので、継続いたします。なお、文中敬称は略しました。


 今回の震災や先の大震災に遭われた方々を思うと、僕の人生など平穏無事なものだと思う。しかしながら、それなりに紆余曲折、挫折続きで、やっと30歳で医者になった。医者になってからも、何度も壁にぶつかり、辞職届を書いたこともある。基本的に、ヘタレな自分といつも向き合わなければならない。そんな僕にとって、間違いなく人生で一番長い日だった一日、2016年4月24日はゆっくりと始まっていた。

4月24日朝7時すぎ、阿蘇医療センターにはDMATや医療支援チームが40〜50人集結していた。

 長崎大学災害医療支援チーム第2班として熊本に入った2日目。朝6時半に宿を出た僕たちは、7時すぎには阿蘇医療センターに到着。事務局の横の部屋で待機することにした。宿から差し入れてもらったおにぎりを事務官の出来隆博が配る。
「それにしても、多いですね」
 待機室は人であふれかえり、北海道から沖縄まで、各地の看板を背負ったユニホームが差し込む日の光で輝いていた。ざっと見積もって、40〜50人はいるだろう。この日は日曜日だから、昼に到着するチームも加えると100人は軽く超すはずだ。チームの紅一点、看護師の久志(ひさし)愛美が期待と不安のハーフ&ハーフという感じでつぶやく。
「どんな仕事なんでしょうね」

 ここにいるチームは、4月19日に熊本県より全国知事会当てに派遣依頼が出たことで組織されている。県庁で昨日見た組織図によると、僕たちの指揮系統は…熊本県医療救護支援本部→救護班管理→阿蘇保健所→阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議(通称、ADROと呼ぶらしい)→事務局(阿蘇医療センターに設置)→全国から集まった支援チームとなる。各チームは事務局の指令で動き、勝手に行動することは禁止されている。もちろん、独立系(1〜数人のグループ)や国境なき医師団などのNGOは、この枠組みの外で独自の判断で動いている。
 チームのムードメーカー、ICU看護師の水田芳博は看護部長から賜ったチョコボールの箱を拝みながら封を開き、1個を口に入れて言った。
「仕事ありませんでした!って、帰ったら、看護部長から怒られるだろうなあ〜」
 皆、おにぎりが喉につまる。

長崎大チームのリーダーを任せた森良孝(右から2人目)

先生は17時に帰ってください!
 4月24日午前7時半から阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議(ADRO)が開催された。県庁担当や阿蘇医療センター長の連絡の後の事務局報告によると 阿蘇地域には避難所42カ所に、把握できているだけで2615人の被災者の方がいるという。阿蘇市から南小国町周辺の医療機関は、9カ所中3カ所がほぼ平常に近い診療体制。6カ所は何らかの支障を来たし、平常の状況ではなさそうである。
 8時半に各チームリーダーが招集された。
 僕は内科医の森良孝にリーダーを任せたが、念のため、後ろの方に立っていた。背の高い事務局の手配係(僕は勝手に「手配師」と名付けていた)がやってきた。ざわついている部屋の中で、低く太い声がゆっくりと広がる。
「阿蘇医療センターの本日の準夜ERをやってくれるチームはないでしょうか?」