熊本県医療救護支援本部で説明を受ける。

 とにかく、県庁ではノロノロで、早く現場に入りたいという焦りが少し出てきた。結局のところ、間違った建物に入りこんでいたらしく、目的とする部署は別の棟だった。
 熊本県医療救護支援本部。
 熊本市街が見渡せる角部屋にあり、20〜30人の関係者がいたが、落ち着いた雰囲気であった。長机の上にパソコンを開いて黙々と仕事をしている。おそらく、数日前までは慌ただしかったのだろう。マジックで手書きの模造紙があちらこちらに貼られている。熊本の地図がいくつもある。正面のホワイトボードには、手書きの組織図があった。指揮命令系統がわかる図だ。
 医療コーディネーターをトップに、救護班管理、搬送班、記録、連絡、受付、各団体(日赤、医師会)、小児・周産期……などの下部組織がある。さらに、救護班管理の下、熊本市、御船保健所、阿蘇保健所、菊池保健所が地区別に分かれていた。
<なるほど、しっかり管理統制されているんだ。災害医療支援というのは…>
 これが今回の任務に対する僕の最初の印象。そして、最後の印象もこれだった。
 この図を見ると、僕らは阿蘇保健所の管理下のチームというわけだ。

熊本市から阿蘇への進入ルート

災害医療支援では裏が表
 受付にチームを登録すると、いくつかの資料をもらった。活動日報(電子ルートで本部へ送る)、熊本市から阿蘇への進入ルート、災害診療記録の解説、医療救護班健康管理シート。
<なるほど、自分の健康もしっかり管理しなければならないのだな>
 今回の派遣では、5年前の派遣と比べて、「なるほど」と感心させられることが多かった。単なる一臨床医としてそう感じたが、災害医療関係者や行政など様々な方々の反省と努力の成果なのだろう。
 ふと外を眺めると、市街地にはブルーシートをかぶせた屋根が目立つ。雨がひどくならなければいいのだが。

途中、各所が通行止めだった。

 僕たちは、まず熊本大学病院へ向かった。
 第1班は宿泊するところがなく、熊本大学病院のご厚意にて、会議室の一室に泊まらせて頂いたようだ。会議室から寝袋やヘルメツトや食料を積んで、阿蘇へ向かった。道はそんなに渋滞はしていなかったが、途中途中、がけ崩れなどで通行止めがあり、すんなりと行かなかった。(後から聞くと、渋滞は結構していたとのこと。寝てしまった僕が気づかなかっただけらしい)

「ここを右に」。森良孝は、地図が読める内科医だ。
 代謝内科が専門だが、臨床でも何でも器用にこなす。長崎大学の関係者全員が閲覧できるWeb上の行動記録(なぜか名前がWebノロ)に森は詳細に入力してゆく。
「森先生は何でもできるね〜」
「先生から、先生と呼ばれると変な感じですね」
 もう10年以上前のことだが、森が研修医の時に長崎医療センターの総合診療科で教えたことがある。優秀だった。どちらかというと体育会系のガンガン働くタイプだったように記憶しているが、繊細さも身に着けたようだ。今回はこのチームの責任者は僕だが、実質上は森君が仕切っていた。
<ほんとに成長したなあ〜。もうオレの出番はないな>
 ほくそ笑みながら、うつらうつらしていると、ゴツンと車が浮き上がる。

事務担当の出来。チームで最も働いてくれた。

「お尻が重いですね〜」
 長身で、いま風の好青年、運転手の出来(でき)隆博が爽やかに言う。
 チームには、必ず事務方が入る。運転に長崎本部との連絡、阿蘇での宿泊の手配、物品の手配や搬入、記録にお金の支払い……。いわば裏方業務だが、この裏方業務が「表業務」となるのが災害医療支援だと、僕は今回つくづく思った。
 DMATが人命救助をする場面は災害の超急性期であり、劇的でニュースやドラマになるのだが、その後の支援は、被災された方々の日常に対するケアやサポートという、地味で地道なものだ。その地道な支援では、膨大な事務量が発生する。
「出来君、さすが、できるね〜!」
 この支援の旅で、何度もメンバーからそう言われるほど(半分、いじられている?)、出来はテキパキと仕事をさばいてくれた。運転、パソコン入力、電話連絡、荷物運び……。今回、このチームで最も働いたメンバーは僕ら医療者でなく、間違いなく事務方の彼だ。
「おっと、また、揺れますよ」
 出来はハンドルを何度も何度も切り、揺れながら山道を行く。支援チームというものは基本的に自己完結が求められる。自分たちの安全を確保し、食料や水や寝る場所も自分で確保しなければならない。3日分の食料、水、食器、ヘルメット、ライト、薬、ごみ袋……と荷物が多く、車のお尻が重くなる。