関東からやってきた初期研修医・鈴木アイにとって、この坂の街ではじめて過ごす夏。毎年8月15日はこの街の人々にとって特別な夜だが、今年はアイや僕にとっても……。


 8月に入ると、この街の雰囲気は変わる。
 至るところがきれいに掃除されて、交通規制の看板が立ち並ぶ。地元のニュースや新聞にはあの日に関する特集が並び、鎮魂と祈りの夏の日が続く。
 8月9日11時2分、坂の街にサイレンが鳴りわたる。その残響が消えぬうちに黒塗りの車列は走り去るとともに、カメラや横断幕を持った大勢の人達も去って行く。
 この日を境に、ふたたび街の雰囲気ががらりと変わる。

長崎の精霊流し

 軒先やガレージから響く大工仕事の音、提灯を掲げる家の光、斜面沿いの墓地から風に乗ってくる線香の煙、電車通りで立ち往生する県外ナンバーに駅前の混雑。人口密度が一気に膨れ上がり、命ある人は亡き人を思い、その霊を見送る準備に走り回る。
 この時期、患者の数はぐっと減り、大学病院はがらんとしている。今日は精霊流しの15日で、休暇や早退の職員も多く、開店休業状態だ。研修医室も朝から出入りはほとんどない。
 そんなゆったりとした午後、僕は研修医室の隣の教育センター事務所で、ひとり腕組みをして唸っていた。2台のパソコンで組むのは、1年次研修医の秋からの診療科ローテート表。40人分の希望と28診療科の都合を聞いて調整する複雑な作業で、これがなかなか骨の折れる仕事なのだ。ジグソーパズルに似ていると思う。いつもなら事務の吉山良子係長、通称ヨシヨシと一緒にひとつひとつピースを組み立てるのだが、今日、彼女はいない。

「この街の初盆は大変なんですよ〜。数ヵ月前から精霊船を頼んで作ってもらって、当日は船の最後飾りつけや担ぐ人に飲み食いさせて。船を押して街中を練り歩くんですけど、なぜか花火をやりながら歩くんですよ。ほぼ全部が爆竹なんですけど。花火代、いくらかかると思います? 5千円? 冗談でしょ。10万は軽く超えますよ。ああ〜、憂鬱。うちの旦那の親の初盆なのに、あのバカ、全然手伝わないで、同窓会とか言って今日も思案橋ですよ。マジ、私、切れてますよ。ああ、初盆より仕事の方がましだわ〜。じゃあ先生、留守番頑張って〜」
 こう言い残して、ヨシヨシは3日間の休暇に入った。
 そういうわけで、僕は朝から事務室でパソコンに向かっている。盆明けは、10月〜3月の下半期のローテート表を発表しなければならない。研修医にとって、どの診療科をいつ回るかは最大の関心事。一方、受け入れる診療科にとっては、月ごとの偏りがなく、3〜4人の研修医がコンスタントに回ってくるのがありがたい。多すぎると指導医の数が足りずに教えられないし、少なすぎると戦力不足となる。事態をさらに複雑にしているのは、順番にこだわる研修医。「内科の後に外科を回りたい」「麻酔科の後に救急科を回りたい」などと、要望は次から次に寄せられる。

「勘弁してよ〜! やっぱり、無理だ〜。ヨシヨシがいないと」
 夕方になり、一息つこうというよりは半ばあきらめてソファーに座り込む。テレビをつけると、どの局も精霊流しの実況中継だ。
「どんだけ、精霊流し、好きなんでしょうね」
 鈴木アイがペットボトルを片手に事務室に入って来た。
 7〜8月は外科研修のはずで、スクラブのポケットからは手術用の糸の束が何本もはみ出ている。どうやら暇そうである。
「お盆は地獄の釜の蓋が開くからって、患者さんは手術をしたがらないんです。指導医の先生も精霊船を担ぎに行ったし、医局長が『明日まで研修医は休め』だって」
 仕事大好き女医は愚痴りながら、糸をテーブルの脚に巻き付けて、糸結びの練習を始めた。外科を回る「研修医あるある」の光景だ。椅子のひじ掛け、電気スタンドの首、マグカップの取手……。暇さえあれば、糸を巻き付けて結び始める。
 アイは手を忙しく動かしながら、外科研修について語り始めた。
 IVH(中心静脈栄養)の穿刺を3回もやった、開腹のメスを入れた時ものすごく緊張した、外科の先生はいつ休んでるんだろう?、女性外科医がカッコ良すぎる、A先生と術場のB看護師は絶対付き合っている、教授(教育センター長兼務)の手術は神業というよりオタク業、意外と自分は外科向きだと思う……。次から次に話題が尽きない。
 常に上から目線の話し方に、外科医を辞めてプライマリケア医になった僕のことを暗に見下しているのか?と感じたのは、自意識過剰だろうか……。
 やれやれ、いつまで自慢話は続くんだ。いい加減ウンザリしてきた時に、パソコンの横に置いたガラケーが鳴った。

 ストラップにカステラのマスコットがついたガラケーを、アイも見つめる。いつもは三津田さんが持っている在宅医療専用のガラケー。この電話が鳴る意味を彼女も知っているので、少し緊張した面持ちに変わっている。 
 今日は開業医である若葉クリニックも盆休みで、外来は休診。谷河先生も三津田さんも休暇を取っている。しかし、在宅医療は365日24時間体制だ。日頃かなりお世話になっている僕は、お盆の3日間の17時以降、夜間帯の当番を買って出た。バイト代も出るので、小遣い稼ぎ(僕の場合は月々の慰謝料に消えるが…)にもなる。
 と言っても、電話はほとんどかかってくることがなく、たまに来ても「熱が出た」「眠れない」「薬が切れた」といった程度だった。緊急対応を要するものは今のところなく、電話での対応で済んでいる。お盆は家族と共に過ごすことが多いので、患者の体調も良くなるのかもしれない…と、医者らしからぬことを思ったりしていた。
 鳴り響く電話を開くと、画面に上野キヨ(携帯)の文字が浮かび上がった。アイに「キヨさんから」と言って、電話に出る。