在宅医療研修で様々な患者と出会い、温かい交流の中で成長している初期研修医・鈴木アイ。しかし当然ながら、現実は甘いことばかりではない……。


 ザイゼン教授は腕組みをして、鈴木アイを見下ろしていた。
「血圧は、138の80ですね、良好ですよ、心配ありません」
 ベッドに横たわる患者に笑顔を見せたアイに対して、
「おかしい! そんなに高いことはない。もう一度、測定してください!」
 教授は、アイの背中に命令を投げつける。
「正常範囲ですよ」
 アイは驚いて振り返り、ムッとして立ち上がった。
「母の正常範囲は130以下。そんなに高くなることはない。僕は10年間、データを蓄積している。パソコンに入れているから、なんなら見せてもいい。とにかく、もう一度」
 腕組みを解かずに背伸びをし、教授は再びアイに命じる。身長はアイより低いのだが、プライドはアイの5倍は下らない。
(耐えろ、アイ)
 僕は人差し指を立てて「もう一度やれ」と、教授の後ろからこっそりと指示を出す。

(イラスト:タテノカズヒロ)

 ザイゼン教授とはもちろん、山崎豊子の名著『白い巨塔』の主人公・財前教授からいただいたあだ名。この小説は、医局制度にライトを当てて医療界の腐敗などを暴いた物語で、映画およびテレビで何度もドラマ化された名作中の名作だ。
「白い巨塔≒大学病院≒医局≒悪」というイメージを世間に広く植え付けた物語だが、今となっては遠い昔、もう50年前の医療界の話だ。今の医学部には、財前教授のような人は皆無…と思う。
 白い巨塔の舞台は高度経済成長の時代。医局にはカネもヒトもモノも、そして権威も十分にあった。今? そんなものはない。特に地方医局には。まずヒトがいない、カネもない。人事権を持つ教授は少なく、医局長を中心とした合議制で運営しているところが多いような気がする。よそ者の勝手な感想なのだが。
 だが、この坂の街の在宅医療の世界には、財前教授ばりの力を持ち、数々の医師や看護師をクビにしてきた実力者がいる。それが、アイの目の前に立っているザイゼン教授だ。
 彼は仕事を辞めて右半身麻痺の母親の介護を10年続けている、奇特な人だ。彼の母親に対する愛情と介護に対する情熱は、誰もが認め、敬服する。まず、その点は強調しておこう。しかし、現場で働く人間にはその愛情と情熱が熱すぎるというか、たじろいでいるというか……。はっきり言おう! 
「教授、勘弁してくれ!」

 ザイゼン教授はとにかく細かい。細かすぎる。それに高圧的で、口調は嫌味たっぷり。
「看護師さん、そこから採血したらダメ。こっちの手のここの静脈から採って。こんなこと、見ればすぐわかると思うんだけどね」
「リハビリ屋さん、いつまでたっても母は改善しないんだけど、やり方悪いんじゃない? こないだテレビでやってたけど、最近のリハビリは……」
「先生、母の足のしびれ、なんとかならないんですか? この薬は減らしてもいいんじゃないですか。ああ、便秘の薬は増やして。あと、ちゃんと時間通りに来てもらわないと困るんですよ。こっちもスケジュールが立て込んでるので」
 いったい、何人の訪問看護師が根を上げただろうか。何人の作業療法士、言語療法士が泣いただろうか。ケアマネジャーも5年で3人変わったそうだ。喧嘩して去って行った医者はどれほどいるか……。
 患者である母親の名前は西前 (にしまえ)京子さん。しかし、彼の息子を皆は「ザイゼン教授」と呼ぶ。

 僕は教授の御指導を受けるようになってから3年になる。三津田さんによると最長記録らしい。
「さすが、教育者ですね。ザイゼン教授のお気に入りですよ」
「いや、僕の肩書は講師だから、教授には逆らえない」
 三津田さんが手をたたいて笑う。実際、僕はザイゼン教授には逆らわない。何を言われてもハイハイと返事し、反論はしない。
「薬を変えろ」と言われれば、「ハイ、わかりました。専門の先生と連絡を取りますね」とはぐらかし、違うメーカーの同じ薬を出して、「いい薬を出しときますね」とにこやかに答える。嘘をついているわけではない。教授に対する講師なりのささやかな抵抗なのだ。

 当然のことだが、教授は新人を嫌う。家に入れることも嫌がられる。研修医は毎回、車の中で待機させるしかない。でも、こいつは大丈夫と判断したら、何とか中に入れてもらって、教授の御指導を受けてもらう。僕的には『白い巨塔』と同様、ザイゼン教授は絶対的な権威だ。手強い相手だが、彼から認められれば研修医は自信をつけるし、確実に次のステップへ飛躍できる…と、勝手に思っている。
 僕は、アイに御指導を受けさせることにした。
 2カ月で5回も在宅医療研修に参加し、熱心で患者さん受けもいい。大丈夫と思ったのだが、やはり時期尚早だったか。さっきからダメ出しが続いている。
「絶対に教授と喧嘩はするな」と、アイには言い聞かせているので、言い争いにはならないが、 どちらも不機嫌を隠そうとしない。それでも、なんとか診察が終わるかというときに、教授の母親、患者の京子さんがつぶやいた。
「胸が痛い」