初期研修医の鈴木アイは、現在救命センターで研修中。しかし、在宅医療にかなり興味があるらしいアイは、教育センター講師の「僕」と3度目の在宅研修に向かう。坂の街であるが、今日訪れるのは港の近くに住む頑固なおじいさんだ。


 僕は大学病院玄関前のロータリーで待っていた。
 1匹のミツバチが足元を通り、花壇のつつじの花々を忙しそうに回り、白いポールに沿って上へと飛んで行った。ポールの先端には、ブルーのフラグがパタパタと音をたてていた。船のマークのついた病院の旗だ。気持ちのいい風を頬に受け、僕は白衣をはためかせながら大きくあくびする。
 黄色い軽自動車がやって来てロータリーをくるりと回り、僕の目の前で停まった。ボディーには『若葉クリニック』の緑の文字。運転手の三津田さんが、車から降りて来た。
「五月晴れの在宅日和ですね。先生も調子良さそうで」
「おかげさまで。まだまだ、リハビリだけどね」
「大丈夫ですよ、その笑顔なら」
 破顔して、車のキーをくるくると回す。
 三津田さんは、僕が一昨年体調を崩して休職したことを知っている。表向きは国内留学としていたが、いろいろあって数カ月休んだ。仕事では周りからの風当たりが強く、家庭内のトラブルもピークの時だった。
「そりゃ、いろいろありますよ。『四十にして惑わず』なんて人はいませんから、休むときは休まなきゃ」
 僕より5つくらい上の三津田さんだが、僕が医者だからいつも敬語を使ってくれる。休職中の僕を時々思案橋へ誘い、兄のように優しく励ましてくれた。
「二十にして志ではなく***を立て、三十にしてキャバクラ卒業、四十にしてスナック三昧」
 この街の飲み屋街に伝わる諺だと言って、落ち込んだ僕を笑わせてくれた。同僚の医者には警戒して弱みを見せられない自分なのだが、この人には、なぜか何でも話せる。不思議な人だと思う。快晴の空を見ながら、そう思っていた時に背中で声がした。
「すいませ〜ん。間に合いました。病棟がバタバタで…」

 鈴木アイ。息を切らして話す彼女は、1年次研修医。この春、東京からこの坂の街の大学へ研修医としてやってきた。今日が、3回目の在宅研修だ。今年の研修医の中で最も在宅に興味を持っている。「なぜ?」と前回聞いてみると、「昔、家族が病気になり在宅医療を望んだけど、いろんな事情でできなかったから……」と言っていた。それ以上は聞かなかったが、在宅に興味を持ってくれるのは素直にうれしい。こんな希少な研修医はこれからの日本の医療にとって至宝……とまで言うのは持ち上げ過ぎか。
 会うのは半月ぶりになるが、ちょっと雰囲気が変わったようだ。髪が伸びたのだろう。そしておそらく美容室に行けないのだろう。ざっくりと髪を後ろにゴムでまとめ、首に聴診器を掛け、よれよれのモスグリーンのスクラブのポケットは、キヨさんからもらった手帳やら何やらで膨らんでいる。いっぱいいっぱいの研修医ライフがにじみ出ている。
 よしよし、医者らしくなってきた。僕と三津田さんは目を合わせて微笑む。

 車は海沿いの道を郊外へ向かって走り出す。僕はシートベルトを付けながら、お約束の質問を投げかけた。
「ゴールデンウィークは休めた?」
「は〜? 休めるわけないじゃないですか。救急科ですよ、マジ忙しかった〜」
 怒っているのか、ドヤ顔なのか、判断がつきかねる声だが、一端の医者らしく自信に満ちている。
「そうかー。大変だったねー。まあ、あんまり無理せず、頑張りすぎず」
 研修医教育係として妥当なコメントをしたつもりだったのだが、一端のお医者さんの癇に障ったようだ。
「今、頑張らないで、いつ頑張るんですか? 研修医ですよ」
「頑張ることはいいことだけど、度を過ぎるとね……」
「先生の言ってること、矛盾してます」
 矛盾?
「初期研修は法律で定められているから、症例レポートや経験項目を達成しないといけない。全部達成するためには、本気でやらないと無理ですよ」
「もちろん、その通り」
「患者さんはどんどん来るから、沢山経験できるのは嬉しいんですが、まだ仕事がとろいので、どんどん帰る時間が遅くなって、超勤になるんです」
「まあ、それはしょうがない」
「でも、月の超勤時間は制限されているわけでしょう」
 それは説明してある。うちの病院だけではない。月および年の超過勤務時間は労働基準法で縛られている。過労死の問題もあるし、働きすぎは良くない。
「じゃあ、仕事を途中で放って、帰ってもいいですか」
「まあ、それは……」

 仕事を放って帰る。そんな場面を僕は実際に見たことがある。
 6年前くらいの話だ。僕は日本を飛び出し、トロント大学の家庭医学科でフェローとしてfamily medicineを1年半学んだ。選択科研修で外科を選んだときのある手術中のことである。背の高い研修医が「I’m over!」と叫んで、手袋をバンバンと音を鳴らして脱ぎ捨てて、オペ室を出て行った。ちょうど17時だった。僕には何が起こったか理解できなかった。後で聞いたのだが、アメリカの研修医と同様にカナダも週80時間労働の厳守がきっちりと決められていたのだ。だから彼はルールを守って出て行った。もっとも、朝は6時前から働いているから、17時に帰ったところで結構な労働時間ではあるのだが。

 アイは僕の話を不機嫌そうに聞き、反論した。
「先生、ここはカナダじゃないし、日本だし。それも医師不足の地方。研修医だって戦力でしょ? チームの戦力なら、自分だけ帰れないですよ。ガンガンやりたくてこの病院に来たんだから。夜残るのも研修医として当たり前なんじゃないですか?」
 東京のお嬢さんと思っていたが、意外と武闘派のようだ。アイは連射してくる。
「それに先生、言ったじゃないですか。ペーシェント・ファースト、まずは、患者さんのことを考えて2年間の研修を行えって。それなのに、無理せず早く帰れ? 矛盾してますよ!」
 勘弁してよ〜。
 そんなこと、お前に言われなくても分かっている! 矛盾をかかえた現場が俺らの仕事場なんだ! 矛盾だらけの曖昧な世界で、青臭い正論を吐くな!
 数年前ならばこう怒鳴り散らしてアイを黙らせたかもしれないが、今の僕は何も言わないし、言えない。「若い人の不安や不満が、いつかは世の中を変えてゆくことを期待したい……」。こんな箸にも棒にもかからないコメントくらいならできるが、医療界の末端で四の五の言っても始まらない。