現実的には、医者になりたいと、真剣に思っていました。しかし、なぜか文科系を選択しました。理系は暗くて女の子がいなかったし、本が読めないと思ったからでした。また、医者の家系ではないのですが医学生となって、苦学していた叔父がいて、彼のなにげない言葉を真に受けたのもありました。
「医者の仕事は、そもそも文系なんだ。人と話して、カルテを書いて……。国語をちゃんと勉強しとかないとダメだ。本を読んで、人の気持ちがわかるようにならなければダメだ。それに、これからは英語が大事だ。文系が強いと医学部は有利」
 「文系に行け」とは、言ってなかったんですよね。勘違い。バカですよね〜。当然、文系から医学部へ進めるわけもなく、独学で理系へ転向し、皆が卒業するころにやっと医学部に入りました(笑)。しかし、叔父のおかげで、青春時代に小説が沢山読めました。感謝です。

本業で「壁に衝突する」うちに
 書きたい。海の見える当直室で、パソコンを開きました。
 でも、天才作家のように天から降ってくるものは何もありませんでした。
「誰もが作家になれる。なぜなら、少なくともひとつは物語が書けるからだ。自分のことを書けばいい」
 自分がやってきた仕事のことを書き始めました。2011年1月末、海は穏やかに冬の陽を揺らしていました。

 静かな病院で、物語はゆっくりと進んでゆきました。
 主人公の矢倉健は、書いてゆくうちに、徐々に動き出してくれました。紺野さくらも、独特のキャラで登場し、話してくれました。どんどん登場人物が出てきて動き出し、書くのは面白いと初めて知りました。

 書き始めた頃、本業の大学での仕事は、「壁に衝突する」ことでした。
 卒後教育を専門で担当する新しい部署をつくり、新しいことを初め、衝突しては壊れ、壊れては創り直し、また衝突するという作業の繰り返しでした。大学にいながら、退局し、背水の陣でひとり戦闘開始……、という勘違い的な気負いで仕事をしていました。これもバカですね。今思えばとても恥ずかしい。
 規則をつくったり、人と言い争ったり、予算をとってきたり、医局めぐりをしたり、イベントを開いたり、人を雇ったり、会議を主催したり、勧誘をしたり……。患者さんを診ること以外で、スケジュールはびっしりと埋まってゆきました。しかし、徐々に賛同者が増え、助けてくれる人が現れて、書き出した物語と共に、現実世界も動き出しました。

 One for all, all for one. の世界だ! 勝手に思って、勝手に感動してました。
 健やさくらが躍動する「虚構」と、大学病院や関連病院で仕事をする「現実」が交差しはじめたのです。

 そんな生活が続いていたところに、東日本大震災が起きました。
 南相馬市に少しの間、診療応援に行かせて頂いたことは、少なからず、この物語に影響したように思えます。
 人の無力さと愚かさ。人の力の凄さと素晴らしさ。喪失と回復、憎しみと愛、失望と希望、破壊と再生、地方と都会……。

第3章第8話より(イラスト:北神 諒)

 この物語の核心部分は、大水害の夜。一夜の出来事が、すべてにつながっている物語でした。
 一瞬、一瞬の積み重ねが人生ですから、誰にでもそんな瞬間があるのではないかと思い書きました。物語の中の長崎大水害は、実際の出来事です。三十数年前、多くの方々が犠牲となりました。その時は、大学病院も水に漬かったそうです。

 なんだかんだで1年半が経ち、2012年の夏ごろ、物語は一応完成しました。
 ある賞に応募しました。見事に落選しました。落選通知も来ないレベルでした。それでも、あきらめきれず、十数社の出版社に送りましたが、見事に門前払いでした。
 なぜか? 一言でいえば、初稿は小説として成り立ってなかったからです。
 小説を読むプロのN先生が教えてくれました。
「医者が患者のために存在するように、小説は読者のためにある」
 はじめての気づきでありました。
「小説家も医者も、人を観察することから始まる」
 なるほど。書き直したら、なんとかなるんじゃないか。希望を持ちました。
 それから、数カ月で何度か書き直しました。

 Aさんは、私の初稿の小説を面白いと言って頂いた唯一の方でした。Aさんとは、「業界に一石を投じたい」と、いつも語り合っていた志を同じくする方です。医療系シンクタンクに勤めるB様をご紹介頂き、B様から日経メディカルをご紹介頂きました。おふたりがいなければ、この物語は世に出ることはなかったと思います。心より御礼申し上げます。すべては人とのつながりだということを、再認識しました。大切にしてゆきたいと思います。