売買契約の日、洋子は友恵を連れ、久しぶりに神ノ島に帰って来た。
 その時に、近藤はやっと歩けるようになった友恵を柱に立たせて背丈を柱にメスで刻み、「友恵」と彫ったそうだ。近藤が名前の意味を聞くと、若き日の洋子はこう言った。
「私は両親がいなかったけど、人に、友に恵まれた人生をここまで生きてきました。シスターや親戚のおじちゃん、おばちゃん、それに、スミちゃんたち同級生。もちろん近藤先生に出会えてよかったと思います。でも、私はまだ若いし、これからの人生を新しい場所で生きてゆきたい。この子と一緒に。そして、この子にも、沢山の人や友と出会って欲しい」

 数年後、洋子の家が解体されることになった。
 買い主が転売し、当時流行った木造のペンションが建つこととなった。材料を安く上げようとして、使えるものは使ったのだろうか。古家の柱もニスを塗られて手すりに使われたが、作業の粗さが幸いし、無数の「トモエ」が残った。
 そして、父と娘のつながりの原点は、ペンションを買い取った居酒屋「山」の2階に今もある。

 なぜ、母はこの話を自分にしなかったのかと、友恵は思ったそうだ。しかし、よく考えてみると、母にとっては、既に近藤は過去の人だったのかもしれない。
「好いたところに住んで、好いた仕事をして、好いた人と暮らすことさ」
 母の言う「幸せ」は、母がたどった道そのものなどだろうと、友恵は思う。
 好きな仕事を辞め、愛する人を捨て、追われるように故郷を去った母の思い。
 新たな仕事で、最愛の娘と、見ず知らずの東京で生きる覚悟と決意を表した言葉だったのかもしれない。
 この仕事を好きになろう、この子を愛そう、東京に愛されよう、と……。

 今となっては、もうわからない。でも、柱に刻まれた「友恵」は見ていたはずだ。25年前、ほんの一瞬ではあったが、神ノ島で3人が暮らしたことを。そのときの母の想い、父の想いを。そして、母の最期の一瞬、3人は再びここで暮らすことができた。
 柱に自分の名を刻んでくれたことを友恵は心から感謝し、近藤に礼を言ったそうだ。黄昏の神ノ島の砂浜を歩きながら。
「その日は私を抱っこした?」
「もちろん、したよ。何回も」
「うれしかった?」
「ああ、とても」
「お母さんは喜んでいた?」
「そうだったと思う」
「今も、私を抱っこできる?」
 近藤は日焼けした太い腕を出し、自分より背の高い友恵を抱き上げようと、彼女の背中と足に腕を回した。
「気をつけて、しっかり、にぎりなさい」
 近藤の言葉が友恵を少女にもどし、ゆっくりと腕の中に包まれていく。砂に足を取られて少しふらついたが、父はしっかりと娘を抱き上げた。
 父のにおいがした。波の音が聞こえる。目を閉じて父の胸に顔をうずめる。母の顔が浮かんできた。

 おとうさん。ありがとう。
 幸いにも、私は好きな仕事に就きました。大好きなお父さんとお母さんと、数日でしたが、一緒に暮らせました。そして、ここが好きな場所になりました。
   
「お母さんは、きっと天国から……」
 友恵の話を聞いていたさくらが息を詰まらせる。
「歓んでいたよ、洋子ちゃん……」
 おかみさんも言葉にならない。
 健が胡坐の上に載せていたラグビーボールにも、ポツポツと黒いシミが広がっていた。

  ※   ※   ※

 初期研修マッチングの中間発表は9月の終わりに行われる。
 全国約8000人の医学部6年生が、来年研修したい病院をマッチング協議会のホームページに登録する。9月中旬までの登録について、各病院を第一希望とする学生数が中間発表される。
「人気投票みたいなものなの?」
 さくらが山田に聞いた。
 山田は、またも西果に来ていた。8月から9月上旬にわたる臨床テーマ別試験を乗り切って、晴れやかな顔をしている。今は秋の試験休みで、長丁場の卒業試験が来月から始まるそうだ。
「人気投票? まあ、そうですね。全国の病院がランキングされますから。医学生の方は、そのランキングを見て、希望を変更できるんですよ。自分の希望する病院の人気がすご過ぎてヤバいと思ったら、別の病院に変えることができる」
「ランキングを見て、実際に変えたりするわけ?」
 健が聞いた。
「ほとんど、変えないと思いますよ。1学年8000人の医学生に対して、初期研修医の定員は1万人以上あるわけですから、第一希望がだめでも、第二希望くらいでひっかかりますから」
「売り手が有利、学生が有利ということね」
「だから、こいつらが図に乗る」
 さくらと健と山田は、外来から小会議室へ移動した。
 パソコンがプロジェクターにつながれて、壁にモニターを大きく映し出している。14時になった。マッチング協議会のホームページを事務部長の片山が開こうとするが、アクセスが集中していて開かない。
 繰り返しクリックするうちに、30分以上もたった。
「つながりました!」
 中間発表の全国一覧が開く。