【第5章までのあらすじ】日本の最西端・西果(さいか)市の西果中央病院で初期研修医の確保を命じられた内科医、矢倉健は西果中央病院の大PR作戦を展開する。その最中、病院を潰したい市長が仕掛けたシンポジウムでは民間移譲の論が優勢となったが、医療界の重鎮・近藤和仁の提言で、病床再編による生き残りへ舵が切られることとなった。生き残りには初期研修医の確保が必須。健の奮闘の結果がいよいよ出ようとしている。

 西果中央病院を潰そうとした市長一派が画策した「西果の医療を考えるシンポジウム」は、大どんでん返しで、病院存続という結論に達した。勝利の立て役者、近藤和仁はシンポの後、西果に10日ほど滞在した。
 宿泊先は居酒屋「山」の2階。釣り客のための小さな部屋が5つある。
 健は5月からひとりそこに住んでいて、今は友恵も泊まっている。友恵がものごころついてから、父親である近藤と一つ屋根の下で生活したのは初めてという。
 洋子も友恵も、近藤のことを「先生」と呼び、近藤は「洋子さん」「友恵ちゃん」と呼ぶ。3人がこれまでどういう関係だったかはわからないが、ある種の緊張感と尊敬の念が間にあり、一定の距離を保っていたようだ。
 友恵がなかなか聞き出さないので、健はある朝、踊り場の手すりの「傷」のことを近藤に聞いてみた。
「トモエが沢山、彫ってあるんですが」
 巴、友枝、朋絵、知恵、友江、知枝、友衛、共恵、常茂恵、富萌、ともえ……。近藤は何度か「うーん」とうなり、懐かしそうに撫でた。
 それから、1階の座敷で友恵と2人、話し込み始めた。
 健も誘われたが、遠慮した。親子2人でゆっくり話をするのは初めてではなかろうかと感じたからだ。長い時間、話していたようだ。その日は土曜日だったので、健は午前中に病院に行き、昼頃帰って来たが、2人はまだ話し続けていた。

 昼食はおかみさんがソーメンをゆでてくれた。
「出汁が美味しい」と言う友恵に、
「ここら辺りでは、市販の麺つゆを使わないんだ」
「何を使うんですか」と健が聞くと、親子の会話がまた続いてゆく。
「カサゴ。こっちではアラカブというのですが、その煮汁がこのつゆ。洋子さんもよく作ってくれた」
「お母さんのソーメンを食べたのね」
「ああ」
「どんなソーメン」
「どんなって、ソーメンはソーメン。多分、島原産。友恵ちゃんも食べただろう」
「どこ産かなんて、覚えてない。つゆはスーパーに売った麺つゆだった」
「そうか」
「3人で食べたかったね」
「そうだなあ」
 健が自分の部屋に戻った後も、2人は話し続けてた。
 夕方、健が部屋の窓を開けると、黄昏の中、神ノ島の砂浜を歩いている2人の姿が見えた。
 
 2人がその日話したことについては、ずいぶん後になって友恵から聞いた。
 洋子が逝って、近藤も去り、友恵が2度目の地域研修を終える8月の終わりだった。
 健とさくらとおかみさんは、「山」の座敷で友恵の静かな語りに耳を傾けた。
   
   ※   ※   ※

 大水害の後も、近藤は毎週金曜日に町立西果病院で手術を続けた。
 それまでと違ったのは、金曜の夜に長崎に帰らず、洋子の家、彼女が父から引き継いだ実家に泊まるようになったことだ。
 洋子は金曜日が待ち遠しかったようだ。
 当直明けの金曜朝、神ノ島の市場に行き、新鮮な魚や野菜を買って帰る。少し寝たら、カレーの仕上げを始める。カレーは数日前に仕込みを始め、ルウから作っていた。特にスパイスにはこだわっていたようで、色付けのパプリカやサフラン、香り付けのローレル、シナモン、辛味付けのマスタードや山椒などを使っていた。
 夕日が落ちて海がオレンジ色に染まる頃、近藤は“帰ってきて”大好物のカレーを食べた。そのカレーが、後に御茶ノ水で「コハク・カレー」となったようだ。
 食後は砂浜を歩く。誰もいない真っ暗な海岸線をふたりは波の音を聞きながら歩いていた。

 そんな金曜日が3年近く続き、洋子は突然姿を消した。
 友恵を宿した洋子は、近藤に何も告げず去っていったのだ。もちろん、近藤は方々手を尽くして探したが、見つからなかった。
 その後も近藤は洋子の家を使い続けていた。彼女の銀行口座に賃借料として毎月お金を入れたが、その額は一般的な家賃を大きく超えるものだったようだ。
 近藤は、洋子の家にひとり帰る。風呂を沸かし、魚をさばいて酒を呑む。砂浜を歩く。
 いつの頃からか、転がる流木を拾って帰り、使わなくなったメスで自己流の彫り物をするようになった。いろんなものを彫っているうちに、気づくと女の子の顔を彫るようになっていたそうだ。
 そんなとき、洋子が女の子を産み、トモエと名付けたことを人づてに聞いた。どういう漢字をあてるのか。いつのまにか、沢山の「トモエ」を柱に彫っていたそうだ。
 優秀な外科医がひとりポツリと古い家で、愛おしい女性が産んだ自分の娘の名前をメスで刻み続ける。地位と権力と名声を得ても、愛と後悔と苦悩を抱えて、これから生きてゆかなければならない。どう責任をとり、どのように娘を……。自問自答しながら、彫ることで忘我していたのかもしれない。
「大丈夫、逃げるな」
 自分が繰り返し言ってきた言葉をつぶやきながら、「トモエ」を刻み続けた。

 1年と少したった頃、「家を売る」と洋子から連絡があった。
「もう、大丈夫です。逃げないで生きてゆきます。だからお金は振り込まないで」
 近藤は、ある友人に洋子の家を買ってもらうよう依頼し、結果的に高く売れた。バブル景気が始まった頃であったし、近藤が一部を出したのかもしれない。洋子が予想した数倍の値段だったようだ。東京で店の権利が買えて、十分なお釣りも出たそうだ。洋子は、夢であったカレーの店を御茶ノ水で始めることにした。