シンポジウムが始まって1時間が過ぎようとしているが、西果中央病院の現状に対しては、結局のところ、何の解決策も出ていない。蒸し暑い夏の夜、聴衆からはパラパラと帰る人も出始めた。このままでは議論は何の進展もせず、ただ、渡辺洋子という変わったおばさんの話が皆の印象に少し残るだけということになる。
 よし、ここだ。健はマイクを握って立ち上がった。
「もう一度、我々にチャンスを下さい。小佐々院長を先頭に、今、改革を進めています。厳しい状況ですが、単年度黒字も見えてきている。お願いします!」
 健の言葉が終わらぬうちに、怒号のようなヤジが降ってきた。
「医者はどうやって集めるんだ!」
「がんばった結果が、潰れる寸前だろう!」
 富徳のドスの利いた声が鳴る。
「小僧! いい気になるな! 裏切り者」
 市長の顔が大きく歪んだ。
 いかん。タイミングを見誤ったか。だが、ここで引いたら終わりだ。健は続ける。
「まずは、マッチングに力を入れて研修医を集めています。研修医が集まれば、大学の医師派遣も復活する可能性がある。医者が集まれば、いろいろな問題は解決します」

 ヤジは激しさを増す。
「そんなの甘い!」
「素人の若造が、何がわかる!」
「民間移譲しかない!」「そうだ、移譲だ」
 再び紛糾してきた。押されている。負けるのか。
 最後の手段を……。
 健が合図をすれば、片山が極秘資料の要約をばら撒く手はずとなっている。それを見れば、民間に移譲して検診センターになっても住民にとっていいことはないとわかるはずだ。しかし、よくよく考えると、この極秘資料、「マル秘」と仰々しく書くほど、たいしたものではない。検診センターの組織図とか、運営方針とか建設予定地が入っているだけだ。
 富徳はその“極秘”資料を渡すことで、健に揺さぶりをかけるつもりだったのか。あるいはばら撒かれることは織り込み済みで、次の一手を虎視眈々と狙っているのかもしれない。相手は海千山千。ワナなのか……。
 どうする?
 確実なのは、ばら撒いたが最後、市との交渉が完全に決裂するということだ。そうなれば、病院への兵糧攻めが始まる危険があり、一番困るのは患者だ。小佐々は「その状況は避けたい」と言い、妥協点を見つけることを望んでいた。健が迷う、その時。
「マイク!」
 一番後ろの席の老人が立ち上がり、マイクを要求した。白髪でしっかりした体型、半袖の白いワイシャツにコハク色のべっ甲のループ・タイをしている。
「ケアミックスにする方法があります」

 司会の塚本が名前を名乗るよう促した。
「失礼、近藤と申します。昔、この病院で外科医として働いたことがあります」
 近藤和仁。
 会場がざわめいた。その名前に聞き覚えがある人たちが少なからずいるようだ。30年前の今日、病院を救った人物であり、今、死の淵から叫んでいる渡辺洋子に女の子を産ませた男だ。西海医科大学・元学長、医療界に隠然たる力を持つ異端児。70歳の今も、半袖のワイシャツからは黒光りする腕の筋肉が脈を打っている。
「ケアミックスとはなんだ?と皆さん思うでしょう。先ほどの渡辺洋子さんがおっしゃるように、地域の人の要望に合った病院の改造案です」
 近藤の地声は、朗々と会場へ響きわたる。
「現在の300病床を230病床に削減して、4つの機能に分ける。120床を急性期型病床として今まで通りに急患を受け入れる病床に。30床を回復期リハビリ病床として、骨折や脳梗塞の患者のリハビリを中心に行う。30床を慢性期の患者をみる医療型療養型病床。残りの50床を病院から独立させて、介護保険を使用する老健施設とする」
 会場は食い入るように近藤の話を聞く。
 カメラのシャッターを切り、ICレコーダーを向けるマスコミ関係者。携帯やiPadで調べだす市職員と病院職員。さくらも、一言一句も聞きもらすまいとメモを取っている。
 目を閉じてじっと聞いている洋子。友恵はその母の肩に手を置いて父の姿を見ている。
 近藤はケアミックスの詳細を理路整然と話していった。司会の塚本が時々、そのよどみない流れを止めて、確認の質問をしていった。
「今の病院をケアミックスにする法的な問題は?」
「ないわけではありません。病床の種類を勝手に変えることはできないので、県の許可が必要となります。今の2012年から数年後には、病床削減の波が来るでしょう。それを先取りする形をつくれば、先行逃げ切りで生き残れるかもしれない」
「医師数、看護師数は、今のままで足りるのですか?」
「急性期病床を半減するので、余裕はできると思います。現場は決して楽にはならないでしょうが、スタッフ数としては十分にいけるでしょう」

 片山が事務部長として質問する。
「建物は現状の施設を使用できるのでしょうか」
「急性期病床はもちろん現状のままで可能です。回復期リハビリ病床は、国の規定に合わせて部屋を広くする必要があります。療養型も同様です。ですから、建物の改造は必要です。いくらかかるかは試算しないとわかりませんが、やり方次第では数千万円のレベルで済むでしょう」
 さくらが手を上げた。
「介護施設は独立とおっしゃいましたが、別の場所に建てるということですか?」
「新しい施設を建設するとなれば、非常にお金がかかります。だから、まずは病院内でベッドを転換して老健施設か介護保険型の療養病床にする。しかし、法的な問題で、介護保険型の療養病床は数年後に廃止される可能性があります。県の医療政策課と相談し、地域の介護計画に照らし合わせて、老健ならやれるかもしれない。その可能性は小さくないと思います。施設長を別にして、社内ベンチャーならぬ、院内ベンチャーでやってもいいのでは」
「看護師でもやれますか? 私、ケアマネの資格も取りました」
「やれます。君のような若い人がリーダーとして活躍すべきだ」
 さくらは、目を丸くして近藤を見つめた。頬は紅潮し、左手は力強い拳となっていた。その拳に洋子の柔かい白い指が添えられていた。